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  • 執筆者の写真東京黒百合会

 没後90年記念・岸田劉生展

(2019・8/31~10/20 東京ステーションギャラリー)

 小石浩治

Ⅰ. 東京銀座に生れた岸田劉生(1891?1929) は、父の死後、キリスト教会の牧師を志すが、独学で水彩画を制作する中で、画家になることを勧められ、黒田清輝の主宰する白馬会に入り、本格的に油彩画を学ぶ。そして雑誌に紹介されたポスト印象派(当時は後期印象派・ゴッホ、ゴーギャン、マチス等)の画家たちを知り、衝撃を受ける。

 1912年には、文展系の絵画に反発した高村光太郎、萬鉄五郎らと共に、ヒュウザン会(仏・fusain=木炭の意)を結成、強烈な色彩と筆致による油彩画を発表する。


「外套着たる自画像」

1912年(明45)21歳 1912年、武者小路実篤と知り合い、以後「白樺」同人たちと親交を結ぶ。1913年に小林蓁(しげる)(=鏑木清方の門下生)と結婚、代々木に新居を構えた頃、自宅に訪れた友人を片っ端からモデルにし、岸田の「首狩り」と恐れられた。

 翌年長女・麗子誕生。この時期の制作を通じて、図らずも写実への転換を始める。1915年には、木村荘八らと共にのちの草土社を結成、後期印象派風の画風から離れ、北方ルネッサンス※(注)傾倒した写実的な画風に変って行く。

※アルプスより北のルネサンス運動を北方美術と呼ぶ。

 北方ルネサンスの代表画家にはブリューゲル、デユーラー、ホルバイン等が挙げられる。

やがて体調不良が続き、結核を発病。療養のため藤沢市鵠沼に移る。医者から野外での制作をとめられたため、麗子の肖像画や静物画に取り組んだ。その後、関東大震災で家が倒壊したのを機に京都へ移住。お茶屋遊びや古美術蒐集にのめり込むが、生活を改めるため、鎌倉に転居。

 1929年、当時、満鉄が行っていた文化人招聘計画の一員に選ばれて満州に旅した。(同年に北原白秋、志賀直哉、里見弴らも招きを受けて渡満している。)満州からの帰りに立ち寄った山口県徳山で胃潰瘍に尿毒症を併発、急死。享年38歳。


 Ⅱ. 劉生と言えば「切通し」と「麗子像」が先ず頭に浮かぶ。


「切通し之写生」

「切通しの写生」・1915年 は風景画の代表作だが、制作後90年の歳月は、劉生が描いた「切道し」の沿道を一変させてしまい、今はマンションが立ち並び、石壁も無い。

 当時、劉生はここから少し離れた同じ代々木の地に住んでいて、この辺りをよく描き回った。

 盛り上がる赤土の路面、切り立った崖、白い石壁などが空へ向かって行く。当時、劉生は「白樺」の人道主義の強い影響下にあり、自然の一木一草にも無限の愛を感ずる気持ちに満ちていたから、路傍の石、草一本にも宿る生命感を凝視、それを克明に描き出す方向をとった。自然の質量そのものに直接触れている感じがする絵だ。「切通し」で思い出すのは東山魁夷の「道」・1950年である。

 東山魁夷・(1908-1999)は、青森の海岸の牧場をスケッチしている時、牧場の柵や馬や灯台を取り去って「道だけ描いてみたら」と考えた。現実の道のある風景ではなく、象徴の世界の道が描きたかったという。まさに心象風景として描いたものなのだ。画面遠くの道がやや右寄りに画面の外へ消えるようにすると、これから自分が歩もうとする道の感じになると語っている。

 劉生は細密描写によって、対象がそこに「在る」ことの不思議に迫ろうとし、対象を再創造しようとするかの様な表現、劉生芸術の代表作であり、片や、風景画に新境地を開いた 

戦後期の東山芸術の特徴を示す代表作である。どちらも画家の歩まんとする「将来・絵画の道」を示すものとなった。

 


 (イ)  劉生は大正7年(1918)の夏から娘・麗子の肖像制作に取り組み、これの完成後に鵠沼の村娘「お松」(鵠沼の漁師の子、麗子と仲良しに)の像にも着手している。油彩、水彩、日本画を含め、合計数十点にのぼる麗子とお松像を制作している。      


「麗子五歳之像」

劉生が油彩で描いた最初の絵である。 

 劉生は『人物画というものは、人が人を描くのであるだけに、美術における形以上の世界が広くまた深い。-人物画には「生ける人」 としての感じがある。「人」を描く、この事はまた「心」を描くという事である』(名画・岸田劉生・中央公論社刊から)

 また、『麗子の肖像を描いてから僕は、又、一段或る進み方をした事を自覚する。今までのものはこれ以後に比べると唯物的な美が主で、これ以後のものはより唯心的な域が多くなっている。

 ―形に即した美以上のものその物の持つ精神の美、全体から来る無形の美、顔や眼に宿る心の美、一口に言えば深さ、このことを僕にこの子供の小さい肖像を描きながらある処まで会得した』――と。

 肖像画を描くにも仲間達にたいそう哲学的な話をしている。展覧会解説パネルによると――

娘・麗子(画家・48歳没)の思い出話として、劉生のモデルを務めていた時のこと、

『―私はじっと足の痛さを堪えている。----私は父に涙を気づかれないように、ソーッと

上を向く----。父はなおも一心不乱に着物の柄を描いている-----』。なんと献身的な子よ! 

劉生は麗子の「心」は見えなかったのだろうか。その後、1921年、(モナ・リザ)を念

 頭に「麗子微笑」(満7歳)が登場する。

 劉生はここに初めて「内なる美」を見つけたに違いない。


麗子座像1919年


麗子十六歳之像 1929年



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