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大谷さんを偲んで

執筆者の写真: 東京黒百合会東京黒百合会

大谷敏久さん白寿展(2019/10・銀座アートホール)

2020/6/18 逝去 享年100歳と1ケ月



●「畔桜」のこと――――  長谷川 脩


会報(H27・5月)に「畦桜」の一文を寄稿しました。内容は、平成25年3月に町田巨樹・

巨木林の会と県樹木医会と一緒に「町田名木百選」を探訪した時のことを記したものでし

た。

[・ここは首都圏において多摩丘陵から三浦半島まで広域に広がる緑のネットワークの一角を成しており、北部丘陵地帯と呼ばれている。---中略----雑木林の丘に食い込むように、いくつもの水田が今も残っていて、丘の麓から湧き出す水を利用する水田を「谷戸田」、周りの雑木林で構成される一帯が「谷戸山」と呼ばれている。―中略―その谷戸の一つ、「五反田谷戸」にヤマザクラが一本だけ立っている。推定樹齢ニ百年の古木で、刈り取った稲穂を干すために使われる竹の棒が、作業前後に常に立掛けられてきた。この役割を担うヤマザクラはいつとはなしに「畔桜」と呼ばれるようになった。―以下略―] と書いて文中に「畔桜」の写真を2枚挿入しました。それを読んで下さった大谷さんから下記のようなメールが届きました。

ア)「畔櫻」のこと、丁寧に詳しく書いておられ、感銘深く拝読しました。町田市の自然保全の意図を深く想いました。自然に恵まれているのに更に・・・ 。十数年も前になりますが、亡き遠藤博さんの案内で、初夏の五反田谷戸、新緑の「畔櫻」を訪ねたことを思い出しました。貴兄の写真「畔櫻」がとてもよく撮れていて、焚き火も実にうまく捉えられているのに敬服しました。「畔櫻」のモチーフが急に昂まりました。

このアゼザグラが山桜と知り、サツポロ生まれの小生、山桜フアンですので、このモチーフを絵にするのをお許しいただくようお願いいたします。

ピンクが染井吉野より少し濃いのも好き、

それに花と葉が一緒に出るのが、さらなる魅力!前景、背景は私のスケッチからと思っています。


「老桜」(町田市谷戸田・畔桜)F6


その後、作品が出来上がり、また報告が送られてきました。

イ) お陰さまで、貴重な貴兄の写真から微かな印象を頼りに「老桜」(畦桜)を描き上げました。

貴兄の畦桜2点の臨場感の美しさにはとても及びませんが、煙が描きたかったので嬉しい作品になりました。本当にありがとうございました。機会を作って、また宜しくご指導下さい。

            ―― 大谷敏久


この時、大谷さんの感性の若々しさを感じました。煙と桜から、若かりし頃に見たターナ

ーやコットマンの画集での印象と結び合わせて、作品にする・・その力に感心していました。

北斗展の頃の懐かしい思い出です。

もう、あの温顔に接することも、お話しすることが出来ず残念です。

  こころからご冥福をお祈り申し上げます。


● 大谷敏久さんを偲んで ――― 森 典生


大谷様の急逝の訃報に接し驚いており、ご生前の面影を偲びご冥福をお祈りいたします。

北斗展、合評会、東京黒百合展等で長らくご一緒させて頂き色々とご指導いただきました。豊富な人生経験でユーモアもあり説得力のある語り口とその内容に何時も尊敬の念を抱いておりました。

遡ると大洋展の大先輩で大谷さんは奨励賞の受賞など大活躍で、温厚で温和な人柄は皆から慕われておられました。

昨年の素晴らしい白寿記念個展では銀座アートホールの会場訪問時ご在席で、喜多さんご夫妻と偶々同席でお二人の絵画・人生・近況などお話を伺うことができて有難かったことを思い出しております。

また、「来年は百歳記念展を必ず開催するのだ」とお元気な姿でおっしゃって居られました。

コロナ事情で開催予定不能となって残念なことでした。

大谷さんの絵に対する研究は徹底しておられました。画風の構成、紙、絵の具の扱い、構図や色調など話が弾むのが楽しくて教わることが多くありました。私のアクリル画にも興味を示されて話題が多く都度勉強させていただき「頑張れ」とエールを送っていただいたのが思い出の一つです。

これからは東京黒百合会の発展を見守って頂きたいと願っております。

ありし日を偲び謹んでご冥福をお祈り申し上げます。             合掌



● 大谷先輩と“たたら”会

          ―――― 奥野嘉雄

  突然の訃報には大変驚きました。故人となられた大谷先輩からは百歳記念の個展を開くとの案内状も年初頭に頂いており当然元気にお過ごしのことと思っておりました。先輩の溢れる才能が失われたことに対してたたら会(現日鉄OB主体の絵画同好会)としても深い哀悼の意を表します。

加えて、絵画への情熱を決して失うことなく百歳まで現役として生ききられた人生に対して絶大なる拍手を送りたいと思います。ご冥福を改めてお祈り申し上げます。

  標記のたたら会は大谷先輩が30年前に発起人となって結成された同好会であり、以来一貫して主要メンバーとして活躍されてきました。

私自身、大谷先輩と初めてお会いしたのもたたら会の場でした。それ以前は同じ新日鉄社員なれども年齢差が20歳近くもあって直接面識を頂く機会は有りませんでした。たまたま、代々木にある現在の日鉄研修センターで先輩の絵を見て素人離れした上手さに驚き、絵の描き方をお聞きしたのが始まりでした。


大谷先輩は新日鉄にて鉄鋼製品開発・実用化業務を担当された優秀なエンジニアでしたが、絵画に対しても理系出身らしく常に研究を怠らず切磋琢磨される方でした。たたら会の絵画展では大谷先輩の光輝く水彩画に何時も幅広い年齢層から賞嘆の声があり、多くの会員も教えを請いておりました。

また、たたら会の勉強会では高齢とは思えぬ情熱で構図や配色について語られ、その姿は今でも強く目に焼き付いています。

ご本人は風景画のなかで「光」の表現方法を常に研究されていて作画のたびにその表現を試行されていたと思います。また、水彩絵にも油絵が示す「光」が描けたらとの強い思いがありました。


新日鉄住金OB会会報・表紙(大谷作水彩画8点)



 私の油絵に対しても湖水面の波の動きや凍結した氷面を光でどのようにしたら描けるかと問われ、この難問に頭を抱えた記憶があります。


 私自身、たたら会の縁で大谷先輩より東京黒百合会をご紹介頂き入会することが出来ました。以来、数年が経ちましたが、神田・司ビルでの合評会は私にとって大谷先輩をはじめベテランの皆さんから頂くコメントが大変勉強になり、何時も楽しみにして参加しておりました。これからは大谷先輩の熱いコメントも聞けなくなりましたが、今迄に頂いた教訓を糧にして先輩のレベルに一歩でも近づけるように一層精進したいと考えています。

   謹んでお悔やみ申し上げます。

                 

● 細井真澄

 いつかはと思いながら、ついにこの日がやってきてしまい本当に悲しい思いで一杯です。

でも100歳まで元気に過ごされ、私も絶対に無理だとは思いますが大谷さんの様に生きれ

たら最高な人生だと心より思います。ご冥福をお祈り申し上げます。 


● 笠木貴美子

コロナが収束して居れば百歳の個展を開催していらしたのに・・。残念です。父(中島敏夫

・元東京黒百合会員)と予科で同期でいらしたので、勝手に父のような気持ちでおりました。   

寂しいです。

笠木が逝った次の日だったのですね。 

※編集注;笠木さんのご主人は、6/17(水)に亡くなられました。


●大谷さんの思い出  ―――江沢昌江

大谷さんには水彩の紙のこと絵具のことたくさん教えていただきました。油彩の並ぶ中でも負けない絵をと常にチャレンジをしていました。チロルハットやパリッとしたお洒落な様子 穏やかな話し方の中に熱いものがいつも溢れていました。

 華花はな展では素晴らしい作品をたくさん出品してくださいました。いつも励ましてくださり本当にありがたかったです。

 「わたしの好きな花」という紅いグラジオラスの作品は、わたしも大好きな作品です。

長年のファンだという水彩画家にヒントを得て、大谷さんらしく、それまでの大谷さん自身の絵を超えた魅力的な絵だと思います。

 また英国の水仙の咲き乱れる風景の絵が好きだと話しているうちに、二人ともワーズワースの詩が好きなことが判りワクワクしながらおしゃべりしたことも思い出されます。

 画集を眺めて思い出はつきません。ほんとうにありがとうございました。


● 大谷さんの逝去を悼んで

―――――  牧野尊敏

大御所であられた大谷さんの逝去は、誠に残念至極であります。大谷さんは、本会に対し色々な面でご指導の上、多くの刺激を与えて下さり、本会の活動を盛り上げてくださいました。会員として改めて生前のご厚意に感謝申し上げます。会にとって大きな存在を失いましたが、残して下さった有形、無形の産を有効に生かしたく存じます。 

大谷さんは長い人生の経験から独特の人生観を持ち、90歳代においても研究熱心で独創的に追及する意欲を常にお持ちでした。

特に合評会において色々とするどくお話しされていた様子は今でも目に浮かびます。

プロ級の水彩画の展示は本会展覧会の誇りでありました。油絵の良いところを取り入れ重量感に満ちた画風の水彩画を毎年拝見するのは楽しみの一つでした。それが叶わなくなり残念の一言です。

又、大谷さんは、工学部出身で小生の恩師と同期の大先輩に当たり、私にとってその寂しさはひとしおです。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。

    合掌


● 「人生の師」大谷敏久さん

―――谷 岑夫

この度、大谷さんが亡くなられたとの報に接し、心から悲しく残念です。

本来ならすぐに弔意を捧げるべきでしたが、その頃私は体調を崩して情報に疎い生活をしていましたので、大変遅くなり申し訳なく思っております。

   私は大谷さんを「東京黒百合会」の先輩としてだけでなく、人生の師として尊敬してき ました。

   優しさと厳しさを兼ね備えられ、何事にも真摯に取り組まれ、目下の者にも同じ目線で付き合われる生き方には、一歩でも近づきたいと思っておりました。私の拙い作品に対しても、少ない良い面を上手に褒めて下さったことが、大きな励みでした。とりわけ、私が、大谷さんが創立メンバーの一人であった同好会「北斗展」の幹事を務めた時に私に親しくお付き合い頂けたことは、大変貴重な思い出になりました。

私の絵を見に来てくれる知人の中には、私の作品より大谷さんの作品を見たり、大谷さんと話をするのを楽しみにしている人が大  勢いました。

   「銀座アートホール」で大谷さんと私が談笑している写真を気に入っており、いつも持ち歩くメモ帳に挟み込んであります。

今後は一層大切にしたいと思います。

ご冥福を心からお祈り申し上げます。

安らかにお眠りください。

                                

● 百歳の紀寿展を目前にして 

―――― 小石浩治

○エルム写生会のこと        

1998年9月(H10)、第13回エルム水彩展(東京黒百合会・遠藤博主宰・エルム写生会の展覧会)を契機に会員の親睦を兼ねて会報「エルム水彩」を発行することにした。

(注:現在の同名“エルム水彩展”は、水彩画の仲間を増やすべく当会が母体となりGAHの協力を得て2015年(H27)に「水彩」中心の同好会を起ち上げたもの。今年第6回目は黒百合会員13名、協力・紹介者15名の出展があった。)

当時、エルム写生会は、スケッチ会に加わった初心者、特にご婦人達への現地指導だけでなく、紙上アドバイス(色彩や構図のこと等)を加えようと考え、講師は遠藤さんと大谷さんにお願いした。

展覧会場は銀座三越前の室町ギャラリーだった。


2009年(H21)遠藤さんが亡くなられた後、大谷さんが、エルム写生会を引き継ぐことになり、会報も2013年(H25)まで続けることが出来た。

その後は都内公園の写生だけでなく、調布・市民会館の一室を借りて「静物」写生などを勉強した。

(図1、2014/8)。 大谷さんの外出が難しい時は、スケッチ参加者を渋谷のご自宅に招き、各自持参の作品を加筆・修正等して、一緒に絵を楽しんだ。

2012年12月、神代植物園スケッチ会の折、大谷さんがエルム写生会幹事役を引退されるにあたり、皆に東京黒百合会50周年記念誌を手渡された。この時大谷さんは「今年の終わりに」とフルート演奏し、合評会を大いに盛り上げてくれた。(図2・2012/12深大寺横・蕎麦屋で)


○ 歌が聞こえる絵 

  画用紙の「白」を生かした作品に図3「集落」F60号がある。最初見た時、この雪景色は北海道の何処だろう、と一戸づつ建物の造りを見て考えたものだった。 大谷さんは英国を足場に欧州を巡った際、この景色に出会い感激して一気に描いたと言う。  

ここは19世紀後半にイギリスのリゾート地として知られるようになった。アルプスの自然を描いた画家・セガンテイーニの美術館もある。加えて昭和39年には北海道・倶知安町と「姉妹都市」提携している。――アルプス山麓の朝、耳を澄ませば、白銀に輝く谷間の村、教会から歌声が聞こえてくる。

大谷さんの奏でるフルートの音に載せて。

   

 “「私の水彩画」を追い求めて、願わくばCentinarian (百歳年)まで生きて努めたいものと願っています“

(2015/12.私信:会報原稿依頼した時)


図1 調布市民会館・絵画教室にて


図2 合評会の後、深大寺横・蕎麦屋で


図3 .「集落」F60号

(スイス:サン・モリッツ) 1998 年作


在りし日の大谷さんを偲びつつ

      ご冥福をお祈りいたします




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編集後記

お知らせ

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