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小石浩治

ダリ展

ダリ展 (サルバドール・ダリ:1904―1984) (9/14~12/12国立新美術館)                   

「ぐにゃりと曲がった時計」は台所でチーズが溶けるのを見てインスピレーションを得たという。   奇才ダリの絵については現在も様々な解釈、推測が飛び交い、簡単には理解し難い。それでも心のどこかに「不可解な面白さ」を認めるのは、「まずアイデアがある」ことが、ダリの絵の本質若しくは創作の源泉となっているからだろう。

「記憶の固執」・1931

ある人がダリの<反り返った髭はどうやって維持しているか>と尋ねたら、「これは水飴で固めているのだよ」と答えたという。※ウイキペディア(インターネット百科事典)より

以下、美術館展示目録や美術雑誌など参考にダリの生涯を大雑把に辿ってみる。 ――――― 1904年、ダリはスペインの裕福な公証人(母方も富裕な商家)の息子として生まれ、芸術や文化に造詣が深く自由な気風の家庭に育った。17歳で母を亡くし1922年美術学校に入学するも母の愛が忘れられず、また先に亡くなった兄の名を与えられ、コンプレックスを持つうちに反抗的態度が強く遂には学校も退学になった。1928年、パリに赴き、ピカソ、アラゴン、ブルトンらシュルレアリスムの中心人物と面識を得る。1929年ダリ25歳の夏、10歳年上のガラと出会い、以来、ガラ一筋だった。(1934年にガラと結婚)。1929年に正式にシュルレアリスト・グループに参加した。①「子ども、女への壮大な記念碑」1929 の「子ども、女」はガラのことを示す。その光景は「幼少期から青年期におよぶ恐怖心の象徴的存在であり、ダリはその恐怖心をガラに捧げたことを表現している」と言われる。しかし別の解釈では、「腐敗のイメージで、腐っていくものが溶け合って別の新しい存在が生まれる」と説く人もいる。シュルレアリスムとは、フロイトの精神分析の影響下に1924年発刊されたブルトンの 「シュルレアリスム宣言」に始まる。 <愛しい想像力よ、私がお前のなかで何よりも愛しているのは、お前が容赦しないということなのだ> 岩波文庫・巖谷國士訳「シュルリアリスム宣言」より  芸術運動の指針に掲げる(夢と現実という対照的な二つの状態が解消していく、いわば一つの超現実を征服することを目指す)とは? どういうことを宣言したのか、私にはイメージが浮かばない。 ※アンドレ・ブルトン=大学で医学と心理学専攻、第一次世界大戦中は青年軍医だった。精神病院の患者たちと接触し人間の深層心理に関わった。70歳没。

1900―50年、20世紀半ば迄第一次、第二次世界大戦をはさみ、さらに美術様式もフォーヴィズム、キュビズム、ダダ、抽象絵画、そしてシュルレリスムなど、変革の波が押し寄せた時期である。その多様性は19世紀末美術に既にその兆し、萌芽を見ることができる。

ダリは自分の制作方法を「偏執狂的批判的方法」と称し、写実的描法を用いながら多重イメージを駆使して夢のような風景画を描いた。その「夢・絵空事」を重ねることが、自分にとって最上の悦びとしていたように思える。

 「子ども、女への壮大な記念碑」・1929

第二次世界大戦(1939-1945)が勃発するとダリとガラは1940年にアメリカに亡命して1948年まで過ごす。ダリは舞台芸術や映画などの美術の仕事を行い、ヒッチコック、デイズニ―、マルクス兄弟などにも協力している。その他、商業的な仕事や出版を通じて、シュルレアリスムを体現する名士としての地位を確立する。 1945年に第二次世界大戦が終結、広島、長崎への原爆投下に大きなショックを受ける。これをきっかけに原子力や核兵器を作り出す科学について知りたいと思うようになった。そして、新しい原子物理学の知見と宗教的な神秘主義を結び付けることで、核時代の到来による決定的に変質した新しい世界における芸術の在り方を探ろうとした。以下は同一作家の5年毎の画想の変化・変貌と見えないだろうか。

「ウラニュウと原子による憂鬱な牧歌」1945

画面中央には原爆を落とす戦闘機が首を左斜めに傾けた人間の頭部の中に描かれている。野球選手はアメリカを象徴し、黒を基調とした画面は、原爆がもたらす恐怖により示される陰鬱な世界が広がる。

「ポルト・リガトの聖母」1950 福岡市美術館蔵 戦後は運動から遠ざかり、ヨーロッパの古典絵画への関心を深めた。その一方で原子物理学にも傾倒していった。右絵の構図は原子核構造になっていて、聖母マリアは愛妻ガラ、幼児はダリを表すという。核の恐怖に支配される世界では神は存在せず、創造の源泉は愛妻ガラだけということを表すと言われる。作品は福岡美術館にある。

「ラファエロの聖母の最高速度」1954 ルネッサンスの画家ラファエロ風に描いた作品。聖母像が動的エネルギーによって旋回しながら幾何学的な形態に解体される様子。中心部にマリアの目、唇がわずかに見える。

1948年にはダリとガラはスペインに戻り、生まれ故郷に近い漁村ポルト・リガトに住み、制作活動を行う。1960-70代に各国で展覧会開催。 ガラは常にダリに寄り添い、ミューズとしてダリの芸術に霊感を与え、プロデユーサーでもあった。その愛するガラが1982年に死去すると「自分の人生の舵を失った」と激しく落ち込み、1983年5月以降、絵画制作を止める。 1989年 心不全により死去。85歳だった。

ダリは自作に対し「ダリの作品は誰にも分らない。ダリにもわからない」とダジャレで話していたという。それが本当なら「曲がった時計」もダリ(誰?)も知らぬ間に“振子”が中に潜んで時を刻んでいるかもしれない。 

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