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  • 執筆者の写真東京黒百合会

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ドキュメンタリー映画「新渡戸の夢」の試写会に参加して

細井眞澄


 私は去年の12月17日(東京)と12月21日(札幌)の両試写会に参加してきました。

東京では40名程、札幌では2回に分け100名程の関係者が集まり、90分程の映画を鑑賞致しました。~学ぶことは生きる証~とのサブタイトルが付いており、一般的に知られている(日本、世界で活躍した華やかな新渡戸稲造(※1)ではなく「貧しい人々への無償教育」に焦点をあて、今でも新渡戸稲造の意志や思想を受け継ぎ実行している人々を紹介した映画に仕上がっております。教育者としての新渡戸が目指した所は「弱者への愛」であり、それを実現している学校「遠友夜学校」に対する思いや情熱でもあったのです。

そして熱心な北大の学生教師のボランティア精神によって、50年間も継続した夜学校でもあるのです。実に半世紀に渡って、北大生の良心によって支えられてこの学校は存続し、軍事訓練に反対し、平和主義を貫いたが為に廃校となってしまいました。

しかし1990年には「札幌遠友塾自主夜間中学」、そして2005年には「平成遠友夜学校」が立ち上げられ、新渡戸の精神に基づき、2つの夜学校が現在復活し、継続されております。

そんな中で何故、我らが「黒百合会」が「新渡戸の夢」の映画の撮影対象として取り上げられたのでしょうか。それは新渡戸の精神の後継者であり、愛弟子の有島武郎が創設した会だからなのです。そして黒百合会は115年経った今でも会として存続し、会展を始めとしてその会の活動を継続しているからなのだと思います。新渡戸の精神は有島が作詞した遠友夜学校の校歌の歌詞によく表現されております。

その歌詞は「人の目指すべきは富でも地位でも名声でもなく、正義を愛し、清き心で真心のまま生きれば、是こそが楽しき極み」だと歌っております。「黒百合会」は我が会の先輩たちがこのよき伝統を受け継ぎ、お楽しみ村ともよんで、実行し継続して来た歴史があるからなのだと思いました。この映画の字幕でも我が「黒百合会」を紹介してくれております。

・・・・・・・・・以下は映画の字幕・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「黒百合会」   新渡戸稲造の思想を受け継ぎ、遠友夜学校の校長も務めた有島武郎が

1908年(明治41年)に創設した画会、黒百合会は日本で最も長く続いている。

現在は北大、東京、札幌の3つの会が活動中

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今日、世界中で戦争やら大気汚染による地球温暖化、そしていじめや不登校を始めとする教育環境の悪化や貧富の差の拡大等、世の中が大変おかしくなってきております。

今こそ世界平和を願い、国際的にも活躍した新渡戸稲造という札幌農学校が生んだ偉大な大先輩の精神を復活させ、その志を継なげようと訴える映画だと思い、この映画をサポート致しております。映像は永遠に記録として残るものだし、当会にとっても大変貴重な機会になるかと思います。そして多くの人に当会の事を知って頂き、興味を持ち、入会される人が増えたら会も活性化され、こんないい事はないと思いました。

 今年の夏頃をめどにミニシアター系で上映出来る様に準備中です。



拓殖大学 人物図鑑より

第2代学監 新渡戸稲造

1862~1933(文久2年~昭和8年)

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新渡戸稲造の生涯


〇 学び続けた青春期 

1862年9月1 日、三男として盛岡市で誕生。5歳で父が死去。9歳で上京。叔父の太田時敏の養子となる。11歳で東京外国語学校英語科入学。15歳で札幌農学校に第2期生として入学。卒業後、農業開拓使の仕事に就くが1883年(明治16)21歳で上京し、東京帝国大学選科に入学。入試の志望動機を聞かれ、「太平洋の橋になりたい」と回答。1年後、東京大学を退学し米国へ留学。アレゲニー大学、ジョンズ・ホプキンス大学大学院、ドイツのボン大学、ベルリン大学、ハレ大学で学ぶ。

〇 教育者としての本格スタートは札幌農学校

1891年(明治24)29歳で、札幌農学校の教授となる。

    1894年(明治27) 32歳で、遠友夜学校を建てて校長となる。札幌の6年間は、弱者に寄り添うことに奮闘を惜しまず、常に学生と向き合っていた教育者であった。

〇 世界的な名著『武士道』の著者

    1900(明治33)38歳、過重労働でカリフォルニアにて療養中に執筆、日本人の精神、信条を欧米人に紹介するために、『BUSHIDO:The Soul of Japan』を米国フィラデルフィアで発刊。米国第26代大統領セオドア・ルーズベルトも愛読者の一人であった。

〇 台湾での砂糖産業の振興

    1895年(明治28)日清戦争に勝利し日本は台湾を手に入れ、植民地としてその統治。新渡戸稲造を台湾の産業を発展させるために、1901年(明治34)2月台湾総督府技師として招聘した。新渡戸の専門性、実行力により、台湾の糖業は世界のトップクラスへ発展していく。これが、新渡戸稲造の大きな業績の一つになった。今でも親日国なのは新渡戸の功績による。

〇 再び教育者として

京都帝国大学教授、第一高等学校校長、東京帝国大学教授、拓殖大学学監、東京女子大学初代学長、東京女子経済専門学校(後の新渡戸文化短期大学)初代校長を歴任。女子英学塾(後のの津田塾大学)の顧問も務める。第一高等学校校長時代に、国内外の様々な分野の人達との幅広い交流から、学生たちに、専門知識よりも常識、幅広い教養、社会性が大事と教え、バランス感覚の重要性を説いた。薫陶を受けた学生には前田多門(戦後文部大臣)、南原繁(東京大学総長)、矢内原忠雄(東京大学総長)、森戸辰男(文部大臣)、田中耕太郎(最高裁判所長官)などの戦後のエリートを育てた。別の一面として実業之日本社の顧問として青少年や悩める人達へ生き方の指針を示し、低俗な雑誌に毎号書くなどは下品で許されない行為だと批判されたが、高い学問をした人間こそが積極的に下まで降りて行って、有用な学問を教えてあげる事だと言い放ち超然としていた。そして「修養」、「自警録」等の実用書も沢山出版した。

〇 国際平和と国際協力を追求した晩年

1920年(大正9)58歳から1926年(昭和元)年64歳まで国際連盟事務次長を務めた。この間、オーランド諸島領土紛争収拾したり国際平和と協力を追究した。日本と世界を取り巻く環境が厳しくなる中、1929年(昭和4)太平洋問題調査会理事長に就任し、日本の団長として国際平和と協力を追求した。しかし、日本が1933年に国連を脱退表明してしまい、困難な状況下で平和を追求し、奔走していたが、1933年10月15日ビクトリア市で生涯を閉じた。享年72歳。

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