2/23~4/16(Bunkamura ザ・ミュージアム)
(英)イスラエル・ゴールドマン氏所蔵の幕末明治に活躍した日本画家・河鍋暁斎(1831-1889)展。
1831年(天保2)現在の茨城県古河市に藩士・河鍋記右衛門の次男として誕生。3歳で蛙をはじめて写生、7歳で浮世絵師歌川国芳に入門、10歳で狩野派に再入門、19歳で修行を終えるも絵師から「画鬼」と呼ばれるほど描くことに打ち込んだ。19歳の若さで洞郁陳之(とういくのりゆき)の画号を得て修行を終えた幕末の頃、狩野派の絵師として生きることは難しかったことから、「狂斎」などの画号で浮世絵、戯画、行灯絵などを描いて糊口をしのいだと言われる。とくに風刺精神が旺盛だった狂斎の戯画は喜ばれたが、明治維新後の1870年(明治3年)に筆禍事件を起こし、大番屋(自身番より大きい)に捕らえられてしまう。翌年正月に放免後、画号を「暁斎」(きょうさい)と改め、絵師として活動を再開する。1881年(明治14)第二回内国勧業博覧会へ「枯木寒鴉図」を出品、日本画の最高賞妙技二等賞牌を受賞、広く世間に知られるようになった。英国人建築家ジョサイア・コンドル(鹿鳴館を設計した)が入門したのもこの頃。幕末の混沌、明治維新、文明開化と大きく揺れ動いた時代にあっても、縦横に作品を生み出していく生来の絵師だった。 注文あれば拒まず、真面目な仏画から顔をそむけるような残酷な場面、時に春画、笑いを誘う風刺画まであらゆるジャンルを描きだそうとした。
1889年・明治22/4月没、58歳。(1872年・明治5に新橋・横浜間鉄道開通)(1887年・明治20に東京美術学校が開校)
会場の展示構成;序章:出会い(ゴールドマンコレクションのこと)
「象とたぬき」
明治3年 ゴールドマンが最初に入手したこの作品を、ある時手放して後悔し、数年間にわたってやっと買い戻したという話から始まる。
第1章:万国飛(世界を飛び回った鴉たち)
「鴉瓜に二羽の鴉」
第2章:躍動するいのち(動物たちの世界)
「「動物の曲芸」猫・鼠等の曲芸。
第3章:幕末明治(転換期のざわめきとにぎわい)
「名鏡倭魂新板」西洋風俗批判とか。
第4章:戯れる(福と笑いをもたらす守り神)
「鍾馗と鬼」明治15年
第5章:百鬼繚乱(異界への誘い)
「地獄太夫と一休」
第6章:祈る(仏と神仙、先人への尊崇)
「達磨」明治18年
中でも第4章の鍾馗を描いた作品「鬼を蹴り上げる鍾馗」は見ていても小気味よい。鍾馗は中国・民間信仰の魔よけの神。俗説では唐の国の玄宗皇帝が病中に鍾馗が悪鬼を退治する夢を見、鍾馗の図を呉道子に描かせたことから始まるという。元は大晦日に鍾馗の図を貼って悪霊を祓ったが、その後、端午の行事の中に加わった。 本来なら組み敷いて懲らしめる筈が、空高く鬼を蹴り上げる・・という発想に拍手したい。
もう一つは第5章「百鬼繚乱」の伝説の遊女と骸骨と戯れる一休禅師を描いた「地獄太夫と一休」。 もとは歌川派の浮世絵師たちがよく描いたもので、これを暁斎は狩野派仕込みの迷いのない線で表している。破れ三味線を弾く骸骨のリアルな骨格は、彼が西洋の解剖図を研究して習得したものという。三味線を弾く骸骨の頭上の一休宗純(室町時代の臨済宗の僧、とんちの一休さん)と地獄絵が描かれた着物をまとった地獄太夫の競演である。
「太夫と一休」のお話-----地獄太夫(室町時代の遊女)は、元は梅津嘉門景春という武家のむすめ。如意山中で賊にとらわれたが、あまりの美貌のため遊女に売られ、堺の長者に抱えられた。 現世の不幸は前世の戒行がつたない故であるとして自ら「地獄」と呼び、衣には地獄変相の図を縫いとり、心には仏名を唱えつつ、口には風流の詩を歌ったという。
一休が堺に赴いたとき、遊女が一休を目に留め、「出家しているなら山にこもっているべきでしょう、ここは浮世の境に近いところよ」と言う。 これに対し一休は「自分はこの身を何とも思わない、どこに居ても同じことだ」と返す。その上でこの遊女こそが地獄太夫と知り、「実際に見ると、聞いていたより遥かに美しいし、大した女性だ」と褒める。「聞きしより見て恐ろしき地獄かな」 これを受けた太夫は [しに来る人のおちざるはなし]。「私と一事に及ぶつもりならあなたも覚悟しなさい」とけん制する。浮世と地獄は紙一重。 この出来事を機に2人は師弟関係を結んだと言う。「門松は 冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし」は一休が太夫に贈ったものとする説もある。(ウイキペディア事典より)
江戸から明治へ、丁髷から“ざんばら髪”へ移る時代、近代国家にふさわしい日本美術の在り方が模索されていく最中に暁斎はこの世を去った。かくもユーモア精神と反骨精神旺盛な画人が、あと10年も生きていたらと思うと誠に残念でならない。ひとつ自分も世相漫画でも描いてみようかと思うほど楽しい展覧会であった。