(3/25~5/21 於:神奈川近代文学館) Ⅰ.子規と神奈川 子規(1867年生)が16歳で初めての上京の際、松山から神戸横浜間の汽船での船旅で横浜港に降り立った。それ以来、帰郷、上京の途上に足をのばすなど、たびたび神奈川の地を訪れていた。1885年には友人と鎌倉までの徒歩旅行を試みるが、戸塚の手前で疲れ果て、神奈川まで引き返して汽車で帰京した。また鎌倉は、その三年後(1888年)に初めて喀血した因縁のある土地である。そのほか大磯には四度も滞在、箱根や川崎、三島、修善寺などを旅している。 Ⅱ.子規と画家たち 〇1891年秋、大学での学問に飽き足りなくなっていた子規は、日本新聞社の主筆兼社主を務め る陸羯南(くがかつなん)を東京・上根岸の自宅に訪ね、大学を中退する考えを伝えた。翌年 2月、羯南の紹介で陸家の隣の家に転居、以後、最後まで根岸の地に住み続けた。子規の才能に 期待し、活躍の場を与えたいと考えた羯南の計らいで、紀行文や俳句評論の連載が、新聞「日 本」紙上で始まる。 〇1889 年の創刊以来、新聞「日本」は、政府批判の社説を載せ、毎年、発行停止処分を受ける。社内では、本紙が発行停止中の損失を抑え、かつ、購読者に不便が及ばないように、家庭向けの絵入り小新聞「小日本」が企画され、子規が編集責任者に抜擢された。 〇子規は、陸羯南を通じて知り合った浅井忠から門下の中村不折を紹介され、その画力を評価して挿絵画家に採用した。不折との画談を通して西洋絵画の優秀さを認め、俳句との比較で一致する点のあることを見出した。美術用語であるスケッチ(写生)の概念を学んだ子規は、これを俳句、短歌、文章に応用し、その後の文学革新運動を展開していった。 ※中村不折=1866-1943 明治、大正、昭和期に活躍した洋画家、書家。1894年に子規に出会い新聞「小日本」の挿絵を担当する。夏目漱石「吾輩は猫である」の挿絵を担当。
浅井忠画「子規の肖像」
〇浅井は1896年に佐倉から下谷上根岸に転居、陸羯南、正岡子規らと交流する。子規はその4年前に根岸に転居している。浅井は子規の影響で俳句に親しみ、ヨーロッパ留学中には 和田英作、中村不折らと一緒に句会を開いたという。
浅井忠作「収穫」・1890年
浅井が生まれた佐倉藩(千葉県佐倉市)では、武士たちの家では幼年の頃より耕作に従事、土に対する愛着が強かった。(新潮美術文庫から)
※浅井忠=1856-1907 洋画家。1876年工部美術学校に入学、フォンタネージに師事する。 明治22年明治美術会を創立。31年東京美術学校教授に就任。33年フランスに2年間留学。帰国後京都工芸学校教授に就任、関西美術院を創立。 渡欧後は印象派の画風を取り入れ、また水彩画にも多くの佳作を残した。 門下に安井曾太郎、梅原龍三郎らがいる。 Ⅲ. 子規庵(病牀六尺)と子規の絵. 日清戦争が勃発(1894年)した時、新聞「日本」の記者だった子規は、明治の日本が初めて直面した戦争に望んで従軍する。ところが帰りの船上で大量喀血。神戸の病院、松山で静養したあと、東京への帰途、奈良に遊んだ。この時、「柿くへば」の句を詠んだ。翌年(1896年29歳)から東京根岸の子規庵で病床生活を送る。余命6年。実はこの時、子規の本当の人生が始まった。新しい文章、俳句、短歌も、子規庵の六尺の病床から誕生する。
1900年頃、病床で筆をとる姿を自ら描く
〇幼少時から絵を得意とし日本画、特に水墨画を愛した子規だが、中村不折との交友を通じて、見たままを描く西洋絵画の“写生”を知った。 1889年、不折からもらった絵具で水彩画を始める。病床にあって子規が描いたのは身近にある草花や果物であった。それも脊椎カリエスの痛みを抑えるモルヒネが効いているわずかな時間に写生をするのが子規の日課だった。 「病床六尺」(新聞「日本」に連載)から---- △ 草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造花の秘密が段々分ってくるやうな気がする。 △ 神様が草花を染める時も矢張こんなに工夫して楽んで居るのであらうか。 △ 病気の境遇に処しては、病気を楽むといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない。 △ “をとといの へちまの水も 取らざりき” 注;十五夜に糸瓜の蔓を切って液を飲むと痰が切れる、咳が止まるという俗信があった。
●1902年(明治35)9月19日没 35歳。
参考資料;「正岡子規展・病牀六尺の宇宙」発行;県立神奈川近代文学館 「子規のあゆみ」(展示案内書)発行;松山市立子規記念博物館
床の間写生図 1902年
「草花帖」・不折からもらった画帳
病室前の糸瓜棚