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小石浩治

川端龍子特別展

――川端龍子 没後50周年記念――

2017/6.24~8.20 山種美術館(主催;山種美術館、日経新聞、協力:太田区立龍子記念館)  川端龍子(1885-1966) 1885年和歌山に生まれた龍子は、幼少の頃より絵が好きだった。一家の都合で東京へ転住、府立 三中時代に読売新聞社企画展に応募したら入選、学校中の評判になり図画担任から東京美術学校への 入学も勧められた。22歳時、東京の雑誌社に入社、23歳時国民新聞社編集局勤務、新聞、雑誌の 挿絵画家としての職を得た。28歳で洋画修行のため渡米する。帰国後間もなく日本画に転向して 院展に出品、何度か落選の憂き目をみるが、挿絵で生活できると思い、あまり当落を気にしなかった。 師匠を持たず独学を貫き、30歳で初入選、31歳で樗牛賞、32歳で同人へ推挙される。しかし当時、 繊細巧緻な画風(床の間芸術)が主流だった院展において、大胆な発想と筆致で構成する龍子の作品 は「会場芸術」と批判され、院展内の軋轢もあり脱退する。1929年(44歳)、自ら主宰する青龍社を創立、展覧会を開催する等精力的に活動、終戦の1945年(60歳時)までに青龍展を16回開催している。 昭和34年文化勲章、昭和41年4月10日死去。80歳。青龍社は院展、日展と並ぶ有力団体として 人気を得たが、龍子の存在が大きすぎたのか、後継者が育たなかったのか、龍子の没後は解散した。 ①1929年・「鳴門」六曲一双 山種蔵 「繊細巧緻なる現下一般の作風に対して、青龍社の創作意図は健剛なる芸術の実践に努力するにある」と宣言、1929年第一回青龍展会場正面に本作品を飾った。 当初は木造船の龍骨を描く予定であったが、静かな湾内の海と対照的に荒い海を描いてみようと 言う気持ちが湧き出て、一艘の小舟を残し、あと(左側)は全部群青で埋めてしまった。 この屏風に使用された群青は3600グラムにのぼった。

②1931年・「草の実」(部分)六曲一双 龍子記念蔵 前年の「草炎」(国立近代美蔵)と似ている構図。 平安時代の「紺地金泥経に着想を得、小画面を大画面に、神聖な主題を身近なテーマに置き換えて 【絹の地は藍色の染料、草は金粉を膠で練り水で溶いた金泥、銀泥】で描いた。通常、花鳥風月画には鳥や虫が描かれるがここには一切ない。かえってそれが、草叢にひそむ虫の息を感じさせる。

③1938年・「源義経(ジンギスカン)」額装六枚一面 龍子記念蔵 昭和13年(龍子53歳)北支に旅行している。フリガナにジンギスカンと書いているのは、当時、史学界で、義経は平泉で自刃したのではなく、実は生きて中国大陸に渡ったとする説が、論争をまきおこしていたからであるという。

④1959年・「筏流し  額装六枚一面 龍子記念蔵 激流、雲、火炎といった流動するものの描写は得意とするところだった。水の描写には日本画では果たせなかった透明度が表現され迫力がある。

龍子の素顔  ◎ 家族思いで素直な人柄であった。家庭人としての龍子は家族をはじめ、身の回りの人々を大切にする人だった。父親との確執から、自分を人の子ではなく「龍の落とし子とし、龍子と雅号を定めた。  俳人川端茅舎は龍子の異母弟である。龍子は昭和19年に妻を亡くし三男は戦死した。1950年(65歳)には「ホトトギス同人の案内で四国遍路に赴く。また敬虔な仏教徒でもあり、自宅に持仏堂をつくり朝夕拝んだ。1963年には喜寿を祈念して太田区に龍子記念館を設立、自作を展示した。館は当初青龍社が運営するも同法人の解散とともに土地建物・作品は大田区に寄贈、以後、大田区立龍子記念館となった。  ◎ 新聞の挿絵に従事していた時代、龍子は国民新聞社の学芸部長を務めていた高浜虚子と出会い、20代のころから俳句をたしなむ様になった。その縁により明治44年から俳誌「ホトトギス」の表紙や挿絵も手掛けている(川端茅舎も描いた。昭和16年 43歳死去 )。俳句を単なる趣味ではなく、季節感を育み、身近な植物への観察力を養うスケッチの変形と捉えていた龍子は、一日一句を詠むことを自らに課し、62歳を迎える年には実力を認められ、ホトトギスの同人にも推挙された。        たらい狭し円く泳げる寒の鯉   相撲放送了ればほっと風薫る ―――川端龍子        一枚の餅のごとくに雪残る    朴散華即ちしれぬ行方かな  ―――川端茅舎 雑誌「ほととぎす」:明治30年正岡子規の友人柳原極堂により刊行。夏目漱石「坊ちゃん」「吾輩は猫である」を発表。明45)龍子が挿絵、昭2)岸田劉生、川端茅舎が表紙を描き、後に安田靫彦も描く。 参考資料:「川端龍子」(日本の名画)・中央公論社刊

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