7月20日~10月9日 東京都美術館(主催:朝日新聞社、後援:アメリカ大使館) 世界有数の規模を誇るボストン美術館(1876年開館・明治9年)のコレクションは、国や政府機関の経済援助を受けず、ボストン市民、個人コレクターや企業とともに築かれてきた。
今回展は、A.古代エジプト、中国、日本美術 B.仏絵画、C.米絵画、D.版画・写真、現代美術 と4章構成になっている。同美術館は日本とも深い関係があり、特に明治時代から岡倉天心、フェノロサ等によって収集された日本、中国の東洋美術コレクションが多数ある。全章を本誌に紹介することは 不可能なので、日本初公開作品となる英一蝶の「涅槃図」、ゴッホの「ルーラン夫妻」について、美術館の解説や資料を参考にして感じたことを記してみたい。
1.ゴッホが(仏)アルルに住んでいた時(1888)、世話になった老夫妻である。夫人の方はあの[ゴーギャンとの共同生活]の後に描かれた作品(1889)とみられる。「配達夫」の筆使いが心地よい。 小林秀雄著「ゴッホの手紙」(書簡による伝記)新潮社版を読むと、ルーランの人柄が少し目に浮かんでくる。 ――(弟)テオは許婚のヨハンナに宛てた手紙の中で「兄貴が一緒に静かにやっていける友は自然か単純な心の人達だけだ」と言っている。――ポリナージュでは炭鉱夫、パリではタンギー爺さん、アルルでは郵便配達夫のルーランであった。発病したゴッホの身の回りの世話は一切ルーランがした。ゴッホはテオに、「ルーランは、僕の親父というには年は若すぎるが、やはり何か古兵が新兵に対して持っているような、黙々とした重々しさと優しさを僕に対して持っている。一言も喋らない が、いつもこんな風に言っているような様子がある。『明日はどんなことになるか知れたものではないが、どんなことになっても俺のことを考えろ』と。そう言ってもらうのはよいことだ。」 ―「君の結婚はぐずぐずしていてはいけないよ。お父さんの臨終のとき、ほんの一言しか言わなかったお母さんを僕は決して忘れない。――実際、夫婦の模範だった。他に例を挙げればルーランと彼の細君だ。」―― 「子守唄」は赤ん坊を抱えて夫の留守をしているルーランの妻をモデルにして描かれた。着想は漁夫の古い伝説から得られた。 <夜の海は荒れ、漁夫は力尽き、悲しい思いに沈んでいると揺り篭を前にした女が舳先に現れ、子守唄を歌ってくれる。> 嘗て、船乗りゴーギャン(注:商船の水先人見習いとなって世界中の海を巡った)から漁師たちの生活の話を聞いていた時、突然、子守りする女の肖像を描こうという考えが閃いたとゴッホは言っている。
郵便配達夫ルーラン
子守唄(ルーラン夫人)
タンギー爺さん
―--------- 2.英一蝶(はなぶさ・いっちょう):「涅槃図」(縦2.9m-横1.7m)1713年作 英一蝶(1652-1724)は江戸中期の画家。この涅槃図はフェノロサが収集。25年前にボストンで一度展示されただけで、ボストン美術館が約170年ぶりの大々的な修復を行い、今回の来日となった。 「涅槃図」は京都の寺(例:東福寺・室町時代の吉山明兆筆「大涅槃図」)でも見ることができる。 しかしこの里帰りの「涅槃図」は釈迦の死を悼む絵でありながら、何処かユーモアを感じさせる。 登場する各人物の表情だけでなく、動物たちからも伝わってくる。画面右隅には悲しみに大の字に ひっくり返る白い象の格好は滑稽ですらある。天平の阿修羅までも釈迦を悼む。しかし、一つ一つの 表情を辿るうちに、「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉」(芭蕉)・・。そんな感じにさせる絵である。 大名から武士、庶民の人気を一身に集めた江戸の絵師一蝶、彼の最大の仏画である。
A.釈迦:長い布教の旅の途中、自らの死期を悟り、クシナガラに向かう。頭を北に顔を西に向けて宝台に横たわる。人々に最後の説法を行い、80歳で涅槃に入った。 B.仏鉢:布教の旅を象徴する。釈迦の枕元。 C.錫杖:旅の象徴。沙羅双樹に架けられる。 D.満月:涅槃に入る2月15日の夜の満月。 E.沙羅双樹:悲しみに白く枯れる。 F.跋提河:クシナガラに流れる川。 G.摩耶夫人:釈迦の母。はせ参じる。 H.阿那津:弟子の一人。摩耶夫人に知らせる。 I.阿難:十大弟子の一人。気絶した姿。 J.純陀:最後の供養者。山盛りの飯をもつ。 k.阿修羅:八部衆(仏法守護神)のひとつ。
〇動物たちの中に迦陵頻伽(人頭鳥身)も見える。