入場無料の日(11/10)を狙って上記展に出かけた。
入口は第一科日本画から始まり、第二(洋画)第三(彫刻)、第四(工芸美術)、第五科(書)と 作品が館内を埋める。受付に広報誌「日展ニュース」NO166 があったので手に取ると、千足伸行氏の寄稿文が目にとまった。 日展の現状を知る参考になると思い、以下に一部抜粋してご紹介したい。 ――「日展に思う」 千足伸行 日展の元祖ともいうべき文展(文部省美術展覧会)が創設されたのが1907年(明治40年)。 我が国最大の公募展としてその歴史と伝統は輝かしいものがあるが、そもそも文展の手本となったのはおそらくパリのサロンであろう。-中略― サロンはフランス美術界の最大の行事として定着し、その開会式、あるいはメダル授与式には時の国王、皇帝が列席するほどであったが、サロンの権威、名声が高まるほど叫ばれたのが審査の透明化であった。ピサロ、モネ、ルノワール、ドガと言った新しい世代の画家たちが印象派を立ち上げたのも、伝統主義的、権威主義的なサロンの審査員(大半はパリの国立美術学校の教授)ではラチが開かない、ならば自分たちで自主展を、との思いからであった。 特に1863年のサロンは審査がことのほか厳しく、落選が続出したので作家たちが時の皇帝ナポレオン三世に直訴し、これを受けて皇帝自ら会場に赴き、それなら落選した作品をまとめて展示し、作品の是非の判断は会場に来た一般の人々に任せるがよかろうという「裁定」を下した。これが有名な「落選展」で、その中にはマネの「草上の昼食」も含まれていた。しかしこの年のサロンでも応募作品総数約5000点に対し、入選は2200余、率にして凡そ40%。他の年は大体50%。―略― それでもセザンヌは落選、また落選だった。
翻って我が日展の最近の例でみると、2016年は総数11000点あまりの応募に対し入選は2400点余。 率にして20%ほどで、かってのパリのサロンよりはるかに「狭き門」である。ただし、日展の場合、欧米にはない「書」が応募作品の8割近くを占めるという特殊事情はあるが、いずれにしても公募展の場合、求められるのは厳正かつ公平な審査である。 ただし「公平な審査」とはいっても入学試験、入社試験などの答案の審査、採点路は異なり、相手は芸術作品だけに審査員の感性、主観、好み、要するに個人的、主観的な視点が入り込むのは致し方のないところである。審査員が変われば、選ばれる作品も変わりうることは十分ありうることである。要は師弟関係、情実、派閥といった思惑に捉われることなく、審査員が自分の目で判断し評価することであろう。 筆者も数年前、日展の洋画部門の審査の末席を汚したが、日展内部の作家による審査は想像以上に厳しく、評価をめぐる意見の対立もあったが、それだけ厳正かつ真剣なものであることを実感した次第である。 審査に当たるのは作家がいいのか、美術評論家がいいのか、その混成部隊がいいのかについては議論が分かれようが、審査の現場を体験し「改組新日展」が名だけのものでないことを実感できただけでも、筆者にとっては大きな収穫であった。 注);千足伸行氏(せんぞく のぶゆき) 1940年京都生まれ、東大卒業、TBS,国立西洋美術館主任研究官、成城大学教授を経て、現在広島県立美術館長、成城大学名誉教授。 ――― 自分は日本画、洋画部門を中心に巡覧したがどちらも説明なしに胸にスッと入ってくる作品が良い作品と思っている。
下図は洋画部門特選10点の一つ、ポエムを感じる作品と思う。
―題名:「音」・油彩 ―作者:鍵主恭夫 (授賞理由);第二科・洋画「長年、詩的で重厚な作品を制作しており、独自の視点で、暗い倉庫の中から黒猫がゆっくりと出てきた一瞬のかすかな音を 描いた力作である」(日展HPから)