―竹内鶴之助と矢崎千代二の先駆者を中心に(2017/10・14~11・26 於;目黒区美術館) ドガの「エトワール」(1876年)はパステルで描かれたということは知っていたが、「ポンパドール侯爵夫人肖像」(モーリス・カンタン・ド・ラ・トウ―ル作1755年)は油彩画ではなくパステルで描かれたものと知ったのは、ずいぶん後になってからだった。人物の内面までに迫る表情の描写は、“パステル画は油彩画に劣らない”ことを世に示そうとした画家の気概が顕れている。 表情だけでなくドレス、その他の装飾品の表現も、当時のパステル技法を駆使して描き上げたものであろう。
そのパステルを追求し、輸入画材を国産化へと導き、パステル画普及に尽力した二人の日本人画家の展覧会が目黒区美術館で開催された。 本展の中心二人の略歴を美術館の解説パネルから拾い、併せて作品の一部をご紹介したい。
A)矢崎千代二(1872/明5-1947/昭22) 横須賀市生まれ、1897年東京美術学校西洋画科入学、黒田清輝に師事、白馬会会員となる。 1904年アメリカからヨーロッパに渡り1909年帰国、1916年に中国に、1919年帰国後インドに渡る。この頃からパステル画を本格的に始めたと考えられ、風景画を多く描いている。 続いてイタリア、フランス、イギリスを歴遊、パリで開催した個展は高評価を受けた。 1926年帰国後は、自身が創出した国産パステルを使ってパステル画講習会、展覧会を開催して普及に努めた。(注) 1930年朝日新聞社嘱託として南米に渡り、移民の様子などを新聞で紹介、その後、東南アジアでも旺盛に制作。1935年帰国、1937年から再び 東アジア、中国に渡るも、北京で終戦を迎え帰国することなく1947年75歳で死去した。 現在、北京中央美術学院美術館に矢崎が終生持ち歩いていた作品千点余が収蔵されている。 矢崎は世界各地を歴遊し、旅で出会う瞬間の風景を描きとめるため、パステルによる「色の速写」という手法を唱えた。岡田三郎助に「其の瞬間の写生」と評され、スナップショットのような臨場感のある表現とともに、油彩に匹敵するパステル画の地位の確立を目指した。
矢崎千代二「リオデジャネイロ風景」 制作年次不明、郡山市立美術館蔵
矢崎千代二「残照インドダージリン」 1920年作、星野画廊蔵
B)武内鶴之助(1881/明14-1948/昭23) 横浜に生まれた武内は、幼いころから絵画に親しむ。1904年日露戦争に出征し203高地戦に参加。 1906年白馬会洋画研究所で絵画を学ぶ。 1909年横浜正金銀行ロンドン支店の兄を頼ってロンドンに渡り、ロンドン美術学校で本格的に油彩を学ぶ。翌1910年にはロイヤル・アカデミーに油彩画が初入選、同年、日本の第4回展に作品を送ったら入選した。 1910~11年イギリス南東部サセックスで写生旅行中にエドワード・ストット(1859-1918/英国画家・印象派)と偶然知り合い、同地に2年間滞在しストットの指導を受けた。 武内のパステル使用は同じくパステル画を多く描いたストットの影響で、はじめは油彩制作の習作の為だったとも考えられる。 その後、1912年(明45)にはロイヤル・アカデミーに再度入選を果たし、翌年に帰国した。 帰国後は光風会展や個展で発表を続け、主にパステルによる風景画、静物画で知られた。 1929 年(昭4)に日本パステル画会※が発足すると、同会第一回展には矢崎千代二、岡田三郎助、石井柏亭、藤島武二らとともに、顧問として出品。以後も各地での展覧会に出品するなど、パステルの普及に尽力した。大正期から長く埼玉・浦和に居を定めたが、戦時中は茨城下館に疎開、戦後は日光に移住、同地で制作を続けた。脳溢血のため67歳で急逝した。 武内のパステル使用法の特徴は、緻密な塗り重ねを多用したものから、点描的なもの、線を用いたものまで幅広いことで、しばしば素材の使用法などに独自の研究と実験を行った。 ※日本パステル画会は昨年創設90年を迎えた。
武内鶴之助「英国風景」1902年頃制作 静岡県立美術館蔵
武内鶴之助「千曲川上流の朝」1932年制作 東京国立近代美術館蔵
(注)国産パステル 「輸入品のパステルは日本の風景に合わない」と矢崎の一言からパステル製造は始まった。矢崎が製造に深く関わった「王冠化学工業所」の「ゴンドラパステル」は初の国産パステルである。1919年京都の地で創業開始、約10年の歳月をかけて日本風土に合わせた色を仕上げた。「ゴンドラ」の命名は矢崎から贈られたパステル画「ベニスのゴンドラ」(下図)にちなんでいる。画家冥利に尽きると思う。
京都・王冠化学工業所:トレードマーク