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小石浩治

白寿記念・堀文子展

(‘17・11/18~’18・3/25 神奈川・近代美術館・葉山館)

Ⅰ. ―展覧会概要―― [未知のものを求め、自然と生命を描き続ける日本画家・堀文子の清新な世界を紹介する。 初期作品や絵本の原画を始め、メキシコ、イタリア、ネパール等世界各地への旅や、四季の草花のうつろいを描いた代表作を展示し、その芸術と人間像に迫る・]・パンフレットから。 (日本画・水彩画と関係資料計150点) [日本画家・ 堀文子の略歴 ] 1918 東京生まれ。 1940 父の猛反対を押し切って入学した女子美術専門学校(現・女子美大)を卒業。 1952 上村松園賞受賞。 1956 ~1976 絵本の世界に遊ぶ。    坪井栄作「二十四の瞳」、胡桃割人形等。 1961 43歳時、夫と死別。(29歳時結婚) エジプト、ギリシャ、ヨーロッパ    アメリカ、メキシコを巡る(~64年)    旅の中でシュルレアリスの影響を離れ日本画の色彩、顔料の美しさに回帰する。 1972 イタリアの絵本展で絵本「くるみ割り人形」がグラフィック賞受賞。 1975 トルコ、イラン旅行。 1987 伊・アレッツオ郊外にアトリエ構える。 1995  アマゾン、メキシコの遺跡の取材旅行 1998 ペルー取材旅行 翌年ペルー、更に翌年ヒマラヤ取材旅行。 2000 82歳時、高山植物ブルーポピーを求めヒマラヤ山脈高地を踏破。 2001 動脈瘤で倒れる。以降、取材旅行から離れ微生物に着目。海中の命をモチーフ。 2011 女子美大より名誉博士の称号を得る。 2015 「一所不住・旅展」兵庫・美術館開催  上の履歴に関連して思い出すのは、両親から勘当されながら画業を進めた片岡球子(1905生・103歳歿)である。13歳違いの堀文子も、旅行好きで強い意志を持った行動派画家であるように思った。

 堀文子は、美校卒業後、当時の先鋭的な日本画の動向を受けながら、身近な動植物の風景を対象として描き続けた。その後、海外の国を訪ね歩いたことにより画風も変わり、木々や草花の描写も多彩な表情を見せるようになった。

1955年「山の思い出」紙本彩色

 「山の思い出」は、これが日本画かと首を傾げたくなる初期の作品だ。どこか、ルソーの描き方に似ている。おそらく40年代から70年代にかけて携わった絵本の仕事から対象を幾何学的に捉え着色も多彩になったと思われる。

1979年「初秋」 紙本彩色

2010年「鶴が渡る、ヒマラヤを越えて」

 更に外国旅行を重ねるうちに、日本画のもつ繊細な線、色、空間の描法に回帰し「自然」を見つめ直すようになる。2001年の大病を克服して後は、「クリオネ」(妖精と遊ぶ)等の微生物「小さな命」にも目を向ける。

堀文子の見る「自然」は、ある意味、哲学的でさえある。時に瑞瑞しい若葉もあれば、秋の向日葵を描いた下図「終わり」もある。

1992年「終わり」

・・「解説パネル」から 「――ひまわり畑の終焉は、その時の私の何かを変える程の衝撃だった。向日葵は頭が黒い種を実らせ、生涯の栄光の時を迎えていたのだ。大地を見つめる顔は敗北ではなく、そのやせた姿にも解脱の風格があった。その顔いっぱいの種は次の生命を宿し、充実していた。死が生涯の華々しい収穫の時だということを向日葵から学んだ。あの日を私は忘れない。」 [ひまわり・堀文子画集、命というもの、第2集2009年]

Ⅱ. 絵葉書を見て、徹子ファンの家内がTV朝日の「徹子の部屋」の壁の“あの絵と同じだわ”と大喜びだった。 

2003年「アフガンの王女」

アフガンといえば武装集団と治安部隊の衝突を繰り返している、あのイスラム共和国。 黒柳徹子に民族衣装を着せ、モデルにして描いた初の人物像という。堀文子85歳。   ※アフガンは、‘73年に王制から共和制に移行した。

堀文子は 2017年に白寿を迎えた。

下図「群雀(むらすずめ)」(本展初出品)は竹と雀を数えると「九十九」になる。 百から一を引くと「白」となることに由来している。白は長寿祝の色とされている。

1975年「群雀」顔彩・板・“柳生の庄”蔵

1992年イタリア・アレッツオ在住時、ひまわり畑をスケッチする堀文子氏

会場の壁に堀文子の言葉が掲げてあった。 〇「群れない、慣れない、頼らない。これが私のモットーです」  〇「心のささやきとか心象風景とかいう表現が嫌いです。心を捨てて、野狐のように物を見たい」

元気なおばあちゃん、次は茶寿(108歳)ですよ、身体を大事に 頑張って描いてね!

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