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小石浩治

熊谷守一 没後40年回顧展

熊谷守一 没後40年回顧展を見た(2017/12・1~2018/3・21 於:東京国立近代美術館)  超俗の人、画壇の仙人 と呼ばれた[熊谷守一1880(明13年)-1977(昭52年)]      1880年(明13)岐阜県恵那郡付知村に生る。熊谷家は代々地主で、父・孫六郎は市会議員を皮切りに岐阜市初代市長、更に衆議院議員も務めた。守一は12歳の時上京、共立美術学館で日本画を研修。17歳の時、「もし慶応に一学期真面目に通ったら、お前の好きなことをしても良い」という父の言葉を受け、慶応義塾中等部普通科2年3学期に編入し1学期だけ通い、絵の道の許しを得る。20歳で東京美術学校西洋画科選科に入学し黒田清輝らの指導を受ける。当時本科は実践指 導者、選科は画家を目指すものを対象とした。  22歳、夏休みを利用して徒歩の写生旅行に出かける。9月都内に戻るが、旅行中に父が脳卒中で急死。おまけに父が残した莫大な借金を負う。これを機に台東区入谷の借家で和田三造、橋本邦助ら友人5人と共同生活を始める。そして24歳、美術学校を首席で卒業、その後も3年間は研究科に残る。卒業後、農商務省の樺太調査団に記録画家として参加、2年間北海の島々を巡る。

「自画像」美校卒業制作・明37年

 この時の報告書用スケッチは後の作品の基となり、この期間中の月給二十五円を大切に使い、東京 に留まり制作に励む。実母の死を機に30歳の時帰郷、以後6年間裏木曽の山中生活を営む。  その後再び上京して制作活動を続け、36歳で二科会員に推挙。42歳で結婚。2男3女を設けるが、 46歳時は貯金が底をつき、熊谷家の生活は困窮を極める。48歳時次男が肺炎で急死。52歳時三女が 病死、この年から東京・豊島区に居を定めて生涯を過ごす。67歳時には長女が肺結核で死去。  1947年(67歳)に第二紀会結成とともに会員になるが4年後に脱退。  84歳の時にパリのダヴィッド・エ・ガルニエ画廊で作品が開かれ好評を博す。  生涯、無位無冠を貫き、87歳の時、文化勲章辞退、92歳の時、勲三等叙勲も辞退した。  96歳時、生まれ故郷に熊谷守一記念館(付知町)を見届けた翌年、97歳で永眠。

 熊谷の画風が大きく前進するのは1929年(49歳)の頃、東京に二科義塾が開設、安井曾太郎、 有島生馬らとともに塾生を指導、更に日本画制作も行うようになってからだ。更に守一の絵に 変化が始まったのは1940年・昭15(守一60歳)の頃といわれる。 一つは1938年の個展で「守一芸術」の理解者で美術品収集家である木村定三氏との出会い(制作と生活両面の支援者となった)、 もう一つは1940年、現存作家としては異例とされる二科展での“熊谷守一生誕六十年記念“特別陳列 であった。以降、画面の抽象化が一気に進み、「モリカズ様式」と呼ばれる赤や黒の空間の輪郭線 が登場する。(日本画で言う“墨線”・“骨描き”)

「ヤキバノカエリ」油・昭31(1956)76歳  長女・萬の亡骸を火葬の帰りの情景。右端の白いあごひげの人物は守一。  昭和15年(1940)頃から赤茶色の太い輪郭線で対象を区切り、その線を塗り残す方法、いわゆる 「モリカズ様式」と呼ばれる方法について<「赤い線」は逆光のように線状に見える“細い光の帯”  という手がかりを用意する必要があったのではないか>と美術館の解説パネルでは推理している。

「のし餅」

「稚魚」

 1949年「のし餅」69歳―実物の絵に近づいてよく見ると、左下の餅は包丁と同じ縦斜めの方向、残る二切れの餅は横方向と、絵具を塗る筆の向きを変えていることがわかる。このことによって餅の配置の奥行感、下にあるテーブルの広がりまで感じられる。  1958年の「稚魚」78歳―青地に赤を組み合わせれば、補色であるため赤の方が引き立って見える。じっと見ていると魚だけが浮き上がり、中央の魚は池の下・・と見える。守一はこのような現象を引き起こす補色や色相対比などの色彩理論を学生の頃から研究しておりノートなどに書きつけて いる。光の3原色、音の振動数の計算、カメラの焦点距離の計算等の記述もあり、守一が身の回り の自然現象の裏にある法則を分析しようとする、科学者タイプの人であったことがうかがえる。

「雨滴」

 1961「雨滴」―色の明度、彩度の差を用いて運動感を生み出す作例。中間色の中ではねる水滴だけを真っ白にして、明度、彩度の高いこの白がふっと浮かび上がって、みる者に動きを感じさせる。

「猫」

「1965「猫」85歳― 一見、「自分でも描けそう」と思う猫だが、実は高度なデッサンの上に成り 立っている。猫は柔らかいため、寝ると皮と肉が下がって、背中からお尻の骨が浮き出てくるが、この猫も、頭から尾てい骨まで骨の形が的確に捉えられている。外見だけでなく中身の構造を 理解していないと、このような絵は描けない。 参考:「熊谷守一・生涯と作品」蔵屋美香著(KK東京美術刊)に、次のような守一の言葉が載っていた。 ● 絵なんてものはいくら気をきかして描いたって、たいしたものではありません。その場に 自分がいて、はじめてわたしの絵ができるのです。いくら気ばって描いたって、そこに 本人がいなければ意味がない。絵なんていうものは、もっと違った次元でできるのです。

● 結局、絵などは 自分を出して 自分を生かす しかないのだと思います。  

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