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小石浩治

青春の苦悩と孤独を歓喜にかえた画家たち・木田金次郎展

 2018/・7/21~9/2 於;府中市美術館 (こののち札幌→ニセコ→岩内と巡回)

 若い漁師画家・木田金次郎をモデルとした有島武郎の「生まれ出づる悩み」出版100年を記念した展覧会である。札幌くろゆり会・田中 督氏から送って頂いた“北海道新聞”の記事によれば、木田金次郎美術館(岩内)、有島記念館(ニセコ)両館の学芸員の奮闘が光る企画展であるという。 (北海道新聞・文化欄・2018/7/13日)―― 両館は2015年秋、インターネットで全国千人を対象に二人の認知度を問うアンケートを実施。有島を知っていると答えたのは35.4% 木田は6.3%にとどまった。そこで、二人のことをもっと知ってもらいたいと認知度アップのプロジェクト実行委員会を発足。白樺派作家の資料を所蔵する白樺文学館(我孫子市)の創設者佐野力氏=北海道空知郡栗山町出身の支援を受け、東京、札幌での「有島武郎・木田金次郎展」開催にこぎつけた。 限られた予算、少ない人員で情報収集し企画展を実現、若い作家を掘り起こし、先達の志を後進に繋いでいく・。この“芽”は平成から次の代へ移っても大切に育ててほしいと思う。  ※ 東京都府中市に多磨霊園があり、ここに新渡戸稲造、内村鑑三、有島武郎、広井勇が眠る。 ※「白樺」=1910年武者小路、志賀直哉等により創刊。有島も参加。第一次大戦期の日本文学に大きな役割を果たす。文学雑誌ながら美術品の図版を掲載、ヨーロッパ美術の紹介もした。 〇伊藤大介学芸員 有島記念館(北海道虻田郡ニセコ町)1979年・有島生誕百年記念して開館。   当館所蔵原本資料のほとんどが出品されます。有島は現記念館のある場所に農場を構え、それを小作人に開放しました。扁額「相互扶助」(有島書)も展示します。 〇岡部 卓学芸員 木田金次郎美術館(北海道岩内郡岩内町)1994年(平成6)開館。   美術館所蔵の約三分の一の作品を展示、木田の画業を網羅した内容になっています。   首都圏の美術館の発信力はとても大きく、木田と言う画家を知ってもらいたい。

上・中央写真;[岩内郊外の安達牧場へ向かう有島(左)と木田(右)](府中市美術館チラシから)本展は(第Ⅰ章・「生まれ出づる悩み」の誕生と有島関連の資料)を見ることで、画家と作家の「創作の苦悩、生活との葛藤」が見えてくる。第Ⅱ章木田の作品約80点。第Ⅲ章 若手の紹介。

●小説「生まれ出づる悩み」の誕生;―美術館・解説パネルを参考にして、本名を記載する。  木田(小説=木本)は傾きかけた家業再興のため東京での学生生活に見切りをつけ、北海道・岩内 に戻る途中、札幌の友人宅に逗留し、毎日のように札幌を写生していた。ある日、木田は東北帝大農科大学(現・北大)の黒百合会第3回展(明43)を観覧し、有島の描く絵に強く惹かれた。 その記憶をもって札幌中を巡っていた時、豊平川沿いのリンゴ園の一角に「有島武郎」の表札を掲げた家を発見する。それから間もなく木田は有島の家を訪問(当時、有島は農科大学の教官)。 有島(小説=私)は、木田の絵を「個性的な見方をしている」と評し、なお、弟(有島生馬)と一緒にヨーロッパを周遊して見聞してきた絵画の話、セザンヌの複製画等を見せ、衝撃を与える。  有島を訪ねた後、木田は故郷・岩内で漁の働き手として毎日忙しいが、その間、木田の絵画への情熱は衰えなかった。1917年の夏頃から漁の合間に岩内近郊のスケッチを重ね、本格的に絵の勉強をしたい旨の手紙を、2冊のスケッチブック(鉛筆素描)と一緒に東京に転居した有島に送る。  有島はこの前年に妻と父を亡くしていた。そして本格的に作家活動を始めたころでもある。 スケッチブックを受け取った有島は、その絵に大いに感動するが、「--余計な感化を受けないで--- その地に居られてその地の自然と人を忠実に熱心にお眺めなさるがいいに決まっています-----」と返事を書く。その上、近く自らの農場(狩太・ニセコ)に行くのでそこで会わないかと書き添える。 1917年11月、有島農場に7年ぶり(小説では10年ぶり)に再会する。この再会が有島の創作意欲を刺激し、翌1918年(大正7)3月に、新聞連載小説「生まれ出る悩み」を発表。大阪毎日新聞、東京日日新聞に其々30回にわたって掲載された。小説は二人の交流のほか、漁船が吹雪に逢い、転覆する場面、主人公が自殺を図る場面(だが思い留まる)を加え、「君よ!春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。君の上にも確かに・・永久の春が・・僕はただそう心から祈る。」と結ぶ。 なお木田宛の手紙に「・・専行致候事御許し被下度候。固よりあれは一箇の小説に御座候得、兄の伝記の一片には無之、兄により暗示を受けたる想像の所産なれば直接御迷惑をかけ候ことは万無之心組に候・・」と、二人の交友を題材にしたことの釈明をしている。(1918.3.25・木田宛書簡) 1923年、新聞連載から6年後、有島は軽井沢で波多野秋子と情死。45歳であった。

●木田金次郎のこと----1893年岩内に生まれる、(15歳)東京開成中学校入学、(16歳)京北中学編入学、

1910年、実家は船主だったが岩内港の修復工事の誤算で漁場が変わり家運が衰退。木田17歳の時、家計を助けるよう東京から呼び戻される。すぐには帰らず、札幌に逗留、展覧会で有島の作品に出会う。後日、有島宅を訪問、その後、岩内に戻り漁業に従事する。 1917年 24歳の時、再び絵を描きはじめる。有島に画帳2冊送り、11月有島農場を訪問する。 1918年 25歳の時、漁師・木田は「・“東日”を見出した。・・旅行記のようなものでも発表する のかな・・その創作の主人公として私が取り扱われていこうなどとは気が付かずにいた・」   資料:[「生まれ出づる悩み」と私] 木田金次郎著 1994年北海道新聞社刊

1919年、有島41歳の時、木田26歳の支援のため東京の自宅で「木田金次郎氏習作展覧会」を開催。 1923年 木田30歳、有島の訃報を受け上京。これより数年の内に画業に専念する決心を固める。 1953年 木田60歳、11月に札幌・丸井今井百貨店で「木田金次郎個人展第一回」開催。 1954年(昭和29)9月、“洞爺丸台風”襲来時に岩内大火。約40年にわたって描いた作品は灰燼に。     失意の木田に朝日新聞論説主幹・笠信太郎が「スグセイサクニトリカカレ」と激励打電。 1957年~1962年 木田は岩内町をはじめ、東京や札幌の支援者の尽力を得て、全国巡回展を開催。         北海道を代表する画家となった。1962年12月死去。69歳。

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