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小石浩治

生誕100年 いわさきちひろ 絵描きです

2018/7/14~9/9   東京ステーションギャラリー     自伝的物語「窓ぎわのトットちゃん」を書いた黒柳徹子が、いわさきちひろの死を新聞で知ったのは1974年の夏8/8日のこと。  黒柳の誕生日[昭8年8月9日]の前日であった。誕生日が長崎に原爆が落とされた日であることから、普段は自分では祝わないが、その日は祝ってくれる人がおり、お返しに自分の愛する「ちひろの作品・絵」を手にして家を出たところで新聞を目にしたという。  「―いつか自分の書いたものに、ちひろさんに絵を描いてもらえたらいいなと思っていた・・」、「―お目にかかったことのない方の死を知って泣くことはめったにないが、子供の味方がなくなったようで本当に悲しかった・・・」と話す黒柳は、その後、松本家と交流を重ねていくうちに「・トットちゃん」の挿絵が決まったという。  初版1981年講談社から発刊。第五回路傍の石文学賞受賞作品。 「―2018年、いわさきちひろ(1918-1974)は生誕100年を迎える。その作品は「子供、花、平和」などのモチーフ、あるいは“かわいい”“優しい”と言った印象が注目されやすいが、「いわさきちひろ 絵描きです」と、のちの伴侶と出会った際に自己紹介したちひろの言葉をタイトルに掲げた本展は、絵描きとしてのちひろの技術や作品の背景を振り返る展覧会である----」 

  ――東京ステーション・ギャラリー「展覧会広告チラシ」より ● いわさきちひろ(1918・福井県武生市~1974/8・8)(解説パネルから)  1918年に生まれたちひろ(岩崎知弘)は陸軍本部勅任技師であった父・正勝と、女学校教師の母・文江、そして二人の妹と共に恵まれた環境で過ごした。幼い頃から絵を得意とし、第六高等女学校(現・都立三田高校)におけるモダンな教育を受け運動神経にも優れていた。 卒業後、美術学校に進むことを望んだが両親の反対にあい、第六高女補習科にすすむ。 18歳時、洋裁学院に入学、その一方小田周洋に師事して「書」を習い始めたが、才能を認められ小田の代理を務めることもあった。 1939年(20歳)三人姉妹の長女の為、両親の薦めに抗しきれず婿養子を迎える。 ちひろはいやいやながら夫の任地満州に渡るが、夫の自殺により帰国する。      帰国後、中谷泰に師事し再び油絵を学び、再度「書」を学ぶが、師・小田周洋に「書」 なら自立できると励まされて書家を目指す。 1944年(25歳)、女子開拓団に同行して再び満州に渡るが、戦況悪化の為再び帰国する。 翌年空襲で東京の家を焼かれ、母の実家の長野県松本市に疎開しここで終戦を迎えた。 1946年(27歳)、宮沢賢治に心酔したちひろは、日本共産党の演説に感銘し、勉強会に参加して後、入党した。日本共産党宣伝部芸術学校で学ぶため単身上京、人民新聞社の 記者として働き、丸木位里、丸木俊に師事しデッサン会にも参加した。 この頃から数々の絵を手掛けるようになり、画家として自立する決心をした。 1949年党支部会議で松本善明と出会い、翌年、結婚。ちひろ31歳、善明23歳。 1951年善明は司法試験に合格、ちひろは4月には長男・松本猛を出産する。 1962年には油彩画をやめ、以降、もっぱら水彩画に専念することにした。 1963年(44歳)、雑誌「子供のしあわせ」の表紙絵を担当することになり、のちの作品に大きく影響を与える。1964年、丸木夫妻が日本共産党を除名された頃を境に、丸木俊の影響から抜け出し、独自の画風を追い始める。 ちひろは子供の幸せと平和を願い、原爆やベトナム戦争の中で死んでいった子供たちに心を寄せていた。1973年の「戦火のなかの子どもたち」がちひろの最後の絵本となった。 1974年8月8日原発性肝臓がんのため死去。享年55歳。(上記・解説パネルから抜粋記載) 1977年下石神井の自宅跡地にいわさきちひろ絵本美術館を開館。  以下、ギャラリーの展示構成順に、作品をいくつか鑑賞していきたい。

 第1章 私の娘時代はずっと戦争のなかでした  1919年(大正8)東京に移り、1933年に高女時代からの岡田三郎助に油絵を学ぶ。  1937年に小田周洋に書を習う。1942年に中谷泰に師事、再び油絵を描き始める。

なでしことあざみ(油彩)1940年代前半     

髪をなびかせる少女 1950年

第2章 働いている人たちに共感してもらえる絵を描きたい  ちひろがかねて抱いていた宮沢賢治への共鳴は、1946年日本共産党入党という形で具体化する。疎開先から上京すると、新聞記者として活動する傍ら、丸木位里、丸木俊夫妻のアトリエを訪れて技法を学ぶ。1947年に手掛けた紙芝居「お母さんの話」(1950年出版)を皮切りに、画家の道を選び、童画家として駆け出す。家庭生活と作家活動の両立をはかる。

     ヒゲタ醤油広告 1950年代前半

ハマヒルガオと少女(油彩) 1950年代中頃

 第3章 私は豹変しながらいろいろとあくせくします  ちひろの原風景、時代や文化状況という面をみた前半部を踏まえて、後半部では作品の魅力に迫る。墨汁、クレヨン、パステル等画材の研究、画面構成、ちひろの「線」に注目する。

はないちもんめ  1958年(水彩・クレヨン・鉛筆)

あごに手を置く少女 1970年  第4章 童画はけしてただの文の説明であってはならない  ちひろは「童画の世界からは挿絵と言う言葉をなくしてしまいたい」と言う。 「-----希望を何もかも打ち砕いてしまう戦争体験があったことが、私の生き方を大きく方向づけているんだと思います。平和で、豊かで、美しく、可愛いものが本当に好きで、そういうものを壊していこうとする力に、限りない憤りを感じます。」 いわさきちひろ1972年

絵本「戦火の中の子供たち」から 炎の中の母と子  1972年

子犬と雨の日の子どもたち 1967年

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