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執筆者の写真東京黒百合会

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ダンスは楽しい

樋口 正毅

 昭和31年4月、希望に胸膨らませて、郷里越後湯沢を発ち、36時間をかけて馬糞風の吹きすさぶ札幌に到着。列車は途中大雨による洪水とかで倶知安駅で3時間余りも停車し、札幌駅に着いたのは深夜であったが、無事恵迪(けいてき)寮にたどり着く事が出来た。割り当てられた居室は馬術部の部屋であった。この部屋での生活も楽しかった。朝早く起こされ先輩に連れられて馬場に行き、初めて馬に乗せてもらった日の事は鮮明に記憶している。

 私とダンスの出会いは、中島公園のスポーツセンターで開かれた馬術部主催のダンスパーティーに参加したのが始まりである。数ある運動部主催のダンスパーティーでも馬術部のそれは別格で、若い女性の多いこと、多いこと。その上、芋の子を洗うが如き混雑ぶりで、多くの女性は壁の花で、男性からすると選取り見取りの状態。兎に角男性が足りず踊った事のない私まで先輩にかりだされ、冷や汗をかきながら女性をホールドしてボックスを踏んでいたように記憶している。それからは、上手く踊りたい一心で、当時大学構内の幼稚園で開催されていた北大ダンス部主催のダンスレッスンにも数回参加してみた。また恵迪寮でも、夜数回に渡ってダンスの講習会が催された。男性は寮生(私も勿論参加)で女性は看護学校の生徒が中心だったように覚えている。1年半の札幌での教養部を終えて9月には水産学部移行のため、函館に移る事になった。

 函館でもダンスは盛んで、松風町の電停そばの「パオン」という名のダンスホール兼教習所にはよく通ったものだ。私たち学生は特別扱いで、月300円で午前11時から夜11時まで連日好きな時間に好きなだけ踊らせてもらえた。当時は杉並町のこじんまりとした啓徳寮に住んでおり、杉並町から松風町までの片道電車切符が10円だったのからして、ダンスホールの1日10円は破格の安さだったように思う。勿論貧乏学生の私には、レッスン料を支払える余裕はさらさら無く、毎日通っては年配のおばさん達に手取り足取りで教えてもらいながら、少しづつ上手くなっていったように思う。

 新川町の会館では札幌同様、運動部主催のダンスパーティーが頻繁に催され、腕に覚えありとばかりに若い女性を相手に大いに楽しんだ。この頃には水産学部の後輩によるハワイアンバンドの演奏で踊る機会も多く、ブルース曲はきまって当時流行していた、マヒナスターズの演曲が多かったように思う。耳元に響く松尾和子のハスキーな声に、気持ちを高ぶらせて踊ったのも青春時代の忘れがたい思い出となった。

 卒業後、東京に就職、数年後には瀬戸内海栽培漁業センターに移籍し、瀬戸内海の小島(伯方島)に移り住む事になった。当時ここは機帆船の島で、男性は殆ど皆船乗りで、一度出航すると数カ月間は帰らず、残っているのは女子供だけの女護が島といった風情の所。しかし結構ダンスは盛んで青年団主催のダンスパーティーが公民館で時折催されていた。私も結婚したばかりでまだ踊れない家内を連れてパーティーに参加しているうちに、島の女性から耳元で「今度は奥さんを連れないでおいで・・・」等と囁かれたのも遠い昔話となってしまった。

 島でライフワークとして取り組んだ「キジハタの孵化飼育」が縁で、クウェート総合科学研究所で研究を続ける事になり小学四年の長男と幼稚園の次男を連れて、一家4人で石油景気で「小さな巨人」と呼ばれた超金持ち国のクウェートに移住することになった。戒律厳しいイスラム国で、勿論禁酒、「男女7歳にして席を同じくせず」の例え通り、男女の仲に関しては殊更厳しく、同じ職場のパレスチナ人が夜若い女性と浜辺で話をしていたと言うだけで、尋問され夫婦でない事がばれ、鞭打ち100回の刑に処せられたと言って青い顔で職場に出て来たのを覚えている。ことほど然様に男女関係に厳しい環境の中、自然とダンスとは縁遠い生活となってしまった。

 6年ほどクウェートでの生活を楽しんだ後、アジア開発銀行に水産専門官として移籍する事になった。最初の3年間はバンコック(タイ国)に、残り11年間はマニラ(フイリッピン国)に勤務した。当時の総裁夫婦がダンスが好きで、パーティーの時にはダンス音楽がかかり、総裁夫婦を先頭に各国の職員何組かが踊っていましたが、この頃には私も足形はすっかり忘れてしまっていたので、単純に音楽を楽しむだけでした。



 次男はマニラのインターナショナルハイスクール時代にダンスに目覚めたらしいです。ハイスクールは日本の大学のような雰囲気で男女交際はかなり自由な様子でしたし、また年に2度ほどダンスパーティーが学校内で夜間催され、男性は目ぼしき女学生にパートナーに成ってくれるようアプローチ(時には女性から申し込まれる場合もあったようです)し、了解が得られると、彼女の家に車で迎えに行き、ダンスが終わったら自宅までお送りしていました。そんな背景からか、東北大学に入学するや、迷わず「ダンス部」に入部申し込みしたようです。2年生から固定パートナーを得て、北大、京大等他大学に遠征し、学生競技会に出場していたようです。家内は帰国のおり、何度か息子の競技会を観にいきダンスに対する思いを深めていたようです。私は大学の休暇の度にマニラに帰省し、家のフロアーでシャドウをする息子を目にし、私たちの時代のダンスとは随分違ったものだなアなんて思っていました。

 海外で定年を迎え20年余の海外生活にピリオドを打ち、雪深い新潟県の古巣に再度居を構えた。次男夫婦は栃木県に在住し、競技ダンスを続けており、私たちも息子夫婦に刺激を受け、老後の健康維持を目的に、還暦を過ぎてから家内と本格的にダンスを始めた。65歳からは競技ダンスに挑戦しJBDF関東甲信越8県の登録選手として年7回から8回燕尾服の背中に番号を背負って8県で催される大会に出場し楽しんでいました。次男夫婦もまだハイハイしている孫娘を連れてクラスは違うが一緒の大会に出場し、息子たちが踊っているときは私たちが子守をし、私たちが踊る時には息子たちに渡すの繰り返しも楽しい思い出です。一緒の大会に参加したり、ダンス旅行を楽しんだり、ダンス談義に親子の会話がはずんだりでダンスの楽しみを人一倍感じられるようになったと思っております。余談ですが、孫娘も成長し千葉大に進学し競技ダンス部に所属し、大会に出場しその様子をLINEに動画で送ってくれます。

 下図はモダン種目(ワルツ、タンゴ、スローフォックストロット、クイックステップ)を踊る選手達の水彩スケッチです。



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