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- 東京黒百合会
- 4月2日
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田中一村 (1908-1977) のこと
東京都美術館「田中一村展」開催 (2024・9/19~12/1)
小石浩治
20年以上も前の話になるが、都内の美術館で田中一村展が開催された。今までにない日本画だという印象を持ったので、本屋さんに立ち寄ったら、「画家たちの夏」(大矢鞆音著)と題した本に一村のことが克明に書かれてあり、読後感想文を著者に送ったところ、感謝状と一緒に「一村の奄美」という画集を送って頂いた。昨年9月に東京都美術館において田中一村展が開催された機に、「画家たちの夏」を再読、改めて田中一村の生涯を振り返るとともに、感慨を新たにした。
1. 青年時代 7~22歳 (1915~1930)
明治41年7月、彫刻家・父田中稲村、セイ夫妻の6人兄弟の長男として栃木県栃木町に生まれた。7歳の頃より父から与えられた号・米邨として<南画>を描く。児童画展に入選するなど早くから画才を現わし神童と呼ばれる。18歳で今の東京美術学校に入学、同期に東山魁夷、橋本明治等がいたが、6月には、家の事情等から退学し独学の道を選んでしまう。
2.千葉時代 23~38歳 (1931~1946)
19歳で弟、20歳で弟と母、27歳で父と弟を失う。「私は23歳の時、自分の将来行くべき画道をはっきり自覚し、その本道と信ずる絵を描いて、支持する皆様に見せましたところ、一人の賛成者もなく支持者もなく、その当時の支持者と絶縁し、アルバイトによって家族病人を養うことになりました・・」と後年、奄美から知人に宛てた手紙に心境を伝えている。
30歳の時、千葉寺町に姉、妹、祖母と移住、50歳で奄美行きのため、家を処分するまで、千葉に暮らし、この間、農村風景、自然の景色、動植物の写生に注力する。
昭和20年、米邨38歳。太平洋戦争終戦。(米)沖縄上陸、(米)名瀬に上陸・米軍占領行政始まる。
3.「一村」の誕生 39~49歳(1947~1957)
昭和22年39歳、「白い花」(下左図)が青龍社展※に初入選。それを機に一村を名乗る。
(※昭和4年 川端竜子44歳・青龍社創立・竜子は第一回展に「鳴門」出品)。
昭和23年40歳、青龍社に「秋晴れ」(下右図・金箔・)出品するも落選。竜子と絶縁。
この年、米邨から田中一村に改める。


昭和28年第9回日展(審査員・東山魁夷)に「秋林」を出品するも落選。
▲この年12月、米国統治下の奄美大島が日本に返還される。
昭和29年第10回日展(審査員に橋本明治が参加)に「杉」を出品するも落選。
昭和33年第43回院展に「岩戸村」「竹」を出品するも落選。学閥、金力、外交手腕がモノを言う世界と考え、中央画壇への絶望を深め、「自ら信ずる絵を探すこと」をこころに決め、1958年昭和33年12月50歳の時、すべてを捨てて奄美大島に単身移住を決意した。
4.奄美時代
昭和36年 53歳、名瀬市・有屋に一戸建てを借りて住み、農業を始める。翌年、有屋から2kmの大熊の紬工場で染色工として働く。日給450円。[5年働いて3年描き、2年働いて個展の費用を作り千葉で個展を開く]という画業の計画を立てる。時に54歳。しかし結局、個展開催は実現しなかった。
昭和47年64歳、紬工場を辞め3年間絵画制作に専念する。
草花を描くこと20年。昭和52年9月、夕食の準備中に心不全のため死去。69歳で生涯を閉じる。


一村は知人に宛てた手紙に「一枚半年近くかかった大作二枚です。一枚百万円でも売れません。これは私の命を削った絵で、閻魔大王への土産品なのでございますから」と書いた。
描かれたモチーフや絵の構成、使用した画材等について、千葉市美術館学芸課長・松尾知子氏の解説によると、<近景に現実世界―此岸、遠景に異界-彼岸 を描くという伝統的理論に基づきながら、一村がこれまで身に着けたすべてを用いて後世に残す作品を作ろうとしていたことが分かる>
と語る。中央に見える小島は、“立神”と言われるもので、神様が最初に立ち寄る神聖な場所で、古くから信仰の対象となってきたもの。
5.日曜美術館
(ア)奄美への移住
NHK日曜美術館で「田中一村」展9月、10月の2回にわたり放映され、9月は「美と風土・黒潮の画譜・異端の画家」10月は「奄美への道しるべ」と表題がついていた。
一村の作品はここ10年の間に一般家庭からも250点余見つかり、今では計800点にもなるとのこと。また、前述の千葉時代、「その当時の支持者と絶縁し南画と訣別した」と語っているが実際はそうではなかったようだ。 NHKの放映の中で、彼が何故、終戦後の沖縄に居を構えることになったのかは今一つ判らないところがあった。昭和21年には米軍が名瀬に上陸し米軍占領行政が始まっているのは承知していたはずだ。当時の一村の絵と向き合うときの姿勢はどうだったのだろうか。
◇ 子供の時、彫刻家であった父の手ほどきを受け、米邨の号をもらったのに、自作に父親が手を入れたら怒って、その部分を破り捨ててしまう。
◇ 39歳の時、第15回青龍展に出品の「白い花」が入選した翌年、金箔・金屏風に「琳派のように華やかに描いてほしい」と後援者に頼まれ、自分の住む千葉寺の農村風景を懸命に描いた作品「秋晴れ」が第16回展で落選したことに納得いかず、40歳の一村が、竜子・63歳(大胆な発想と筆致と構成をモットーとした)に文句を言い、それを契機に青龍社とは決別する。以降、第10回日展46歳、院展50歳出品作品も落選、自尊心が強い一村の中央画壇への失望感を深めたことは想像に難くない。その他、いくつかの事情はあったが、大矢鞆音氏は< 一言でいうなら、ともかく描く環境を変えたかったということに尽きるのではないか >と話す。
(イ)閻魔大王への土産 (クワズイモとソテツ・昭和47,8年頃)―命かけた一作
――クワズイモやソテツの葉の隙間を通してみる空と海、手前の暗い繁みからかなたの明るい空間を透かし見る構図。この視点こそ、奄美作品の特徴である。---大矢鞆音氏
――名瀬・有屋―大熊(紬工場)間の本茶峠を歩いてみた。一村にとっての宇宙、それが奄美だと実感した。下図・イ(芽が出て)→ロ(実がなり)→ハ(花が咲き)→二(朽ちていく)生命の誕生から死まで植物の一生だ。亜熱帯の風景とは違う別世界を描いたのだ。
―前村卓臣氏・一村記念館・元学芸専門員

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