神奈川県立博物館50周年の精華 8/4-9/30 神奈川県立歴史博物館 明治の<美術の魅力を語る>と題し、明治前半期の絵画・美術工芸品を絵画・立体・印刷の3点を柱として展覧会が開催された。このうち日本の洋画のパイオニア高橋由一よりも早く油絵を極め、パリのサロンに入選したのに、画壇の表舞台に出てこない五姓田義松に注目した。
Ⅰ.五姓田義松;1855(安政2年)絵師五姓田芳柳の次男として江戸に生まれた。芳柳は後に明治天皇の肖像を描いたという名声もあり、彼のもとに多くの青年が洋画を学ぼうと集まり、日本に洋画を根付かせる功績をなした五姓田派が形成された。弟子の中に山本芳翠がいる。1859年に開港した横浜は西洋の文物を受け入れる開港場であった。1865年義松10歳の時、父のもとを離れ、横浜に住む英国人ワーグマンに入門。洋画の技を学ぶ。父芳柳は義松を追って横浜に五姓田塾を開くが、弟子たちは初代芳柳ではなく義松が教授を担った。1875年、義松は陸軍士官学校教授を務めるも1年足らずで辞職、1876年工部美術学校に入学、フォンタネージに師事するも翌年に退学、1880年に渡仏、日本人初のサロン・ド・パリ入選作家となる。1889年、米国を経由して帰国、明治美術会の創立に携わる。 しかしこの頃、義松の後にパリ留学した黒田清輝(1893帰国/27歳)が印象派を取り入れた外光派の 作品が脚光を浴び、義松の画風は明治中期にあって既に時代遅れとなった。その辺りが近代洋画史から忘れ去られた一因なのか。1891年師ワーグマン没、翌年父芳柳も没す。1915年、義松没60歳。 下図は1875年義松20歳時制作の「自画像」・水彩と実母勢子の「老母図」・紙/油彩である。
「老母図」は、肝臓を病み伏せる母はこの翌日亡くなった。つまり本作は母の最期の姿を描く息子の作品である。病み衰えた母は、画面外にまっすぐ視線を送る。その先に居るのは本作を描く義松である。冷酷に臨終間際の母を描写するのはどういう心境であろうか。死期を悟った母、それを描く義松に向けられた母の眼差し。成長を見守ってきた息子が自分を描く姿を見つめる母の姿。ひたすら丁寧に描く「写実」を超越する領域に義松が至っていることがうかがえる。
下図「五姓田一家之図」1872・油彩は横浜に所在した義松17歳の頃の工房を描いた作品。画面右2番目が母勢子。弟子たち(左端は妹の幽香)は「一家之図」を描く義松を見ている。この作品も「紙」に油彩で描かれている。
注);参考資料「線と色のきらめき」 歴史博物館所蔵五姓田義松作品選から
Ⅱ.チャールズ・ワーグマン(1832-1891) 義松の師・ワーグマンについて、少し触れておきたい。
1832年ロンドン生まれ、パリで絵を学んだとされるが、詳細は不明な点が多い。1850年代軍隊に入ったようだが退役し、1857年広東にやって来て、英仏VS清の間に起きた事件の取材のために、「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」(ILN)の特派通信員として派遣される。以来、数多くの日本及び日本人スケッチをILNに送り、更に自身が日本で創刊した漫画雑誌「ジャパン・パンチ」(JP)に発表した。日本で言う“ポンチ絵”はワーグマンの「パンチ」が語源と言う。1862年のこの年、生麦事件が起き、報道画として描いている。1863年小沢カネと結婚、1865年ワーグマン33歳、五姓田義松が 弟子入りする。1877年西南戦争はじまる。1885年、横浜居留地に居た米人の印刷会社が、ワーグマンの来日以来描き貯めた画稿を選定し「日本スケッチ帖」(石版画集)と題して 出版した。1866年薩長同盟、大政奉還、坂本竜馬の暗殺、戊辰戦争はじまり、西郷隆盛と勝海舟の 会談におよび江戸城明け渡しとなる。幕末から日本に腰を据えて住み着き、動乱期の日本社会を鋭く 観察し報道画・スケッチ・水彩画・油彩画に描き続けたワーグマンの仕事は、幕末維新史を証言する うえに測り知れない価値を持った歴史記録となった。1891年横浜で死去。58歳。外人墓地に葬られる。
(注)参考資料;「ワーグマン日本素描集」清水勲編・岩波文庫から
「日本スケッチ帖」から1872・明治5年
「宿場風景」油彩 制作年不明
ILNから――1864年 「箱根でたっぷり食事をしている馬丁たち」
JPから―――1885年 「西洋と日本の踊り/ 西洋人は脚で踊り 東洋人は手で踊る」