トレチャコフ美術館蔵 Bunkamura ザ・ミュージアム 30周年記念(11/23―1/27) 国立トレチャコフ美術館は、バーヴェル・トレチャコフ(1832-1898)によって創設された。 トレチャコフはモスクワの商家に生まれ、紡績業で多額の財を築き、数多くの慈善事業を行った。 1851年、自邸に開いた美術ギャラリーから始まり、ロシアの芸術家[特に移動派(注2)]たちの作品を収集、彼等の創作活動を支援した。1892年、全収集品をモスクワ市に贈る等、ロシア芸術・美術界を支えた人物である。ロシア革命(1917年)後、国に移管された美術館は、その後も美術品の収集を続け質・量共に第一級のロシア美術コレクションを誇っている。
[ ロシアの文化小史 ] [ 19世紀後半--20世紀初頭ロシア美術 ] 1856年 クリミア戦争に敗北 1856年 トレチャコフ、ロシア絵画の収集 1861年 農奴解放令(実業家,企業家が台頭) (ロシアの民族文化を守り育てる) 1866年 ドストエフスキー「罪と罰」 1863年 美術アカデミー離脱 (注1) 1869年 トルストイ「戦争と平和」 1870年 移動展覧会協会 結成(注2) 1877年 露土戦争開始 1871年 第一回移動派展 1891年 シベリア鉄道建設始まる 1892年 トレチャコフ、収集品モスクワに寄贈。 1896年 チエーホフ 「カモメ」 1917年 ロシア革命(帝政ロシア崩壊) 1898年 ロシア社会民主労働党結成 1918年 トレチャコフ美術館の国有化。
クラムスコイ自画像
トレチャコフ肖像(レーピン画)
(注1)1863年,ペテルブルグの美術アカデミーで事件が起きた。卒業制作コンクールで金賞を目指していた14人の卒業生が、当局から与えられた一つのテーマでコンクール出品作を描くことに不満があり、テーマを自由に選択できるよう請願したのだ。(金賞受賞者には美術アカデミーの給費留学生としてヨーロッパで学業を続ける特権が与えられていた。)しかし要求は却下され、彼らは特権を拒否し美術アカデミーを退学した。これがロシア美術史上に名をとどめた“14人の反乱”である。反乱の指導者は若きイワン.クラムスコイであった。 (注2)「移動派」とは前(注1)のペテルブルグとモスクワの芸術家達が創立した移動展美術協会 参加者の総称。広範な観客にロシア美術を紹介し且つ作品の販路を広げるために、他の都市でも移動して展覧会を開催するのが目的だった。第一回展はペテルブルグ(1871年)である。 この展覧会は19世紀後半から20世紀初頭の激動のロシアを代表する作家の作品を集め、自然や人物像に宿るロシア的なロマンに思いを馳せて紹介するというもの。風景画はリアリズムを基調とした作品が多く異郷・ロシアの景色が故郷・北海道と重なった。人物(肖像画)もモデルの内面がうかがえるほどの精緻な描写に感嘆した。以下、私の気に入った作品2,3ご紹介したい。 ★ ロシアの風景(シーシキン描く)
シーシキン「正午・モスクワ郊外」1869年
シーシキン「雨の樫林」1891年
シーシキン(1832-1898):美術アカデミーで風景画の教授となるも移動美術展協会創立者の一人。 「風景画家の仕事は自然を学ぶこと。主観を交えてはならない」という。「モスクワの郊外」は 北海道・十勝原野に似ている。「雨の樫林」は湖水近くの原生林を思わせ、映画のラストシーン より情感に溢れて奥行があり、傘さす二人の行方を、まさに“主観を交えて”想像したくなる。
★ ロシアの女性(クラムスコイ描く)
クラムスコイ「月明かりの夜」1880年
クラムスコイ「忘れえぬ女」1883年
クラムスコイ(1837-1887);移動美術展協会の創立者・指導者であった。肖像画家。 作品の特徴は注意深く人間を凝視し、モデルの内面の矛盾や人間の心理を深く掘り下げる。それこそが「真の芸術の最大の使命、目的である」。
49歳で没。 「忘れえぬ女」はクラムスコイがトルストイの屋敷で肖像画を描いたことから、トルストイの「アンナ・カレーニナ」1877年・ではないかと言われる。
★ レーピンとロシアの絵画 レーピンは下図「ボルガの船曳き」(ロシア美術館の所蔵)を移動派展に出品して名声を確立した。 船曳労働の過酷さ、虐げられた民衆の姿を描いたものと教わった記憶があるが、当のロシア美術館 館長は、労働者は決して抑圧された奴隷階級ではなく自由人だ。全て実在の人物がモデルで、画面 先頭に位置する人物は元破門僧。彼らは賃金をもらってもすぐ酒に使ってしまい、元の重労働者に 戻っていくのだという。この労働は1929 年にソ連政府によって禁止されるまで続けられた。
レーピン自画像
レーピン「ヴォルガの船曳き」1870?1873年
レーピン(1844-1930):ウクライナの画家のもとで徒弟として壁画、肖像画等の修業を積む。
1866年にサンクトペテルブルグに上京、ロシア帝国美術アカデミーへの入学を許可され、更に1873~76年イタリアとパリに遊学する。画風はレンブラントのそれに近く、レーピン自身が印象派に所属することはなかった。1878年から移動美術展協会員になるも1893年に離脱。 1894~1907年の間、美術アカデミーで教鞭をとる。後年に、ロシア帝国のエリートや貴族、ルビンシュタイン、トルストイ夫妻等を描いている。彼の芸術は19世紀後半のロシア絵画史上、最も重要な位置を占める。今回展では下図の「ルビンシュタイン」のほか1点しかなかった。 「戸外にて」は1993年のトレチャコフ展で展示されたもの。モデルはレーピンの愛娘である。 女性の表情、光に満ちた周りの風景。絵を観る者もそこに居たかのような錯覚におそわれる。
レーピン「作曲家・ルビンシュタイン肖像」1881年
レーピン「戸外にて」1900年 (注3)
(注1、2、3):参考資料・ロシア近代絵画の至宝(トレチャコフ美術館展)NHK発行・1993