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小石浩治

「海の男たち」

 ☆ お気に入りの一枚 ☆

 シャツをかざし、真夏の海に漂う「筏」に立つ男を見た時は、これぞ“海の男”と感激して、自分 もこんな冒険をしてみたいと思った。それが下図;和田三造作「南風」(1907・第Ⅰ回文展2等賞 受賞)である。普通、漁夫と言えば、伝説・浦島太郎のような姿か、和田三造より1年先輩ながら 夭折した青木繁の描く「海の幸」(1904・油彩画・部分);(右図)のように素っ裸の漁師が獲物を皆で担いで歩く姿が眼に浮かぶが、この「南風」は上半身裸の逞しい壮年の漁師である。 ※ 青木繁は1900年、和田三造は1901年、東京美術学校に入学、二人とも黒田清輝(白馬会)の指導を受ける。「海の幸」は青木繁22歳,「南風」は和田三造24歳の時に制作された。

粗忽にも「遭難」と見間違えたのは、真夏の海の太陽に晒され、上半身裸で中央に立つ男が、他の人物を押しのけて眼に飛び込んできて、筏(実際は帆前船)に立って、漂流していく先を案じる船長にも見えたからだ。――この作品(制作当初題名は“漁夫”だった)は、大島通いの小さな帆前船に乗った画家・和田三造が、大島の景色に魅了されて、「南風」制作までに四度も大島へ航行し、途中、漂流した経験が土台になっている。1902年6月29日,伊東を出発して大島へ行く途中、にわかに西風が起き、みるみる怒涛となって始めは意気軒昂の三造も、船底で神仏に頼った。2日3晩続いた時化も収まり、7月2日正午にようやく大島に着いた。 途中、老船長が船の荷を軽くするために荷物を捨ててくれと頼んだので、三造も行李を捨てようとすると、船長が若い三造に向かって[まだ未来のある身なのだから君の荷物を捨てる時はこの船も郵便物と一緒に沈む時だ、万一、助かった時に君の仕事が出来ないのだから待ちなさい]と言って止めてくれたことに三造は感激したという。和田三造(1883-1967)兵庫県医者の家に生る。昭和33年文化功労者、昭和42年死去。84歳。――画面中央の男性はあたかも神話の人物のようにたくましく理想化されている。ちなみに、明治期の男子平均身長155cm 大正、昭和期は165cm 、現代・170.6cmである。第1回文展・実質1等賞を得たのは、日本の“海に生きる男”、この勇壮さが日露戦争(1904-1905)あとの高揚した気分に合って、画壇と当時の観衆の評判を呼んだ。

和田三造・「南風」1907年(明治40年)油彩151.5×182.4 重要文化財指定東京国立近代美術館蔵

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