・・・・柴野さんを偲んで・・・・
安曇野の画家・柴野道夫さん
○ 絵画に親しむ
―戦後、松本市郊外に疎開された中村善作先生(小樽出身)がよく我家を訪ねて来られ父と絵を描いていたこと、中学校時代には恩師小林先生(ピアノを弾き油水彩画も描く)ご指導があったからだ。松本深志高校時代に「美術クラブ」で楽しく学友と過ごし、東京芸大を目指したが、デッサン力の才能不足を痛感し進学を諦めた。
北大入学は黒百合会50周年記念の年(昭和31)で、歓迎会の席上で記念展の企画が発表された。
この年、岩内の木田金次郎画伯も出品された。
水産学部に移行した函館の時は、父の友人・国画会・小林邦先生の紹介で橋本三郎画伯のご指導を頂き「道展」に入選した。
卒業後、東京での生活が始り、昭和35年から約10年間、絵筆を持たなかった。しかし職場が丸の内や月島だったので、銀座の画廊巡りや上野美術館のぞきだけは続けていた。昭和45年頃、東光会加入、昭和49年には銀座で個展開催したが、この年を境に地方転勤が始り制作のリズムがくるってしまったが、春の東光展だけには毎年100号を出品した。・・・ (30回展記念誌から抜粋掲載)
○ ふる里に帰る
故郷の安曇野に行って農業に従事するのは
1997年(平成10)頃とのこと、したがってご家族と離れて25年もの間、農業と絵画制作の毎日が続いたわけである。
[・・・生まれ育った安曇野に移り住んで早くも5年(平成13)、田舎暮らしは予想以上に面白い。・・
・・6~8月畑仕事に追われ手が付かない。9月に入ってすべてを放り出し、個展や会展のための制作に専念する。
・・畑の作物の手入れをしないと、
・・畑はアッと言う間に雑草園に様変わり。
・・終日、絵のことばかり考えて筆を走らす。
・・生きた絵、味のある絵に
・・目に見えない自然の表情が画面に入れば
・・と願いを込めて夢中で描く・・・。]
(会報・2001年11月号「私のモチーフ」から抜粋)
ふる里の生活の中で描きあげたのが上掲の写真、平成18年松本市公募展最優秀賞受賞作品である。
下図は同題名のスケッチである。
[―ふる里の山に向かいて云うことなし、ふる里の山は有難きかな(啄木)――]
左手に鍬、右手に絵筆を持ち、時に詩を詠み神に祈りを捧げる安曇野の画家・柴野さんに、突如病魔が襲い、春を待たずに旅立って行った。心からご冥福をお祈りいたします
小石浩治
友の死を悼む
柴野君、私が東京黒百合会に入会できたのは、元田 茂先生と君の推薦によるものでしたね。私の初出展は33回展でクウェートの情景を描いた「漁夫と漁船」(F30号)でした。この頃君は「生きた絵、味のある絵が描きたい」と生まれ故郷の安曇野に住居とアトリエを新築しようとしており、帰国後越後湯沢に新居を構えたばかりの私の家を見たいと、その絵を運搬がてら千葉から奥様と車で訪ねてくれましたね。翌日は大源太湖や湯沢高原アルプの里等を巡りましたが、君は片時もスケッチブックを離さず、少しの時間でも画筆の動きを止めず(右欄写真)、さすが黒百合会の優等生と納得したものです。
その後の君の安曇野を描いた作品は四季折々の自然の息吹を巧みに描きこみ、まさに自然は生きており、君の目指した生きた絵として私たちを魅了して止まない。私はと言うと、家内と競技ダンスに興じ関東甲信越8県の競技会出場が忙しく、油彩画の製作は、年に1~2作品の超寡作で、いつまで経っても東京黒百合会の落第生から抜け出せずに今に至っている。でも松本での競技会の折には安曇野のホテルで夕食を共にしたり、また君の新居で君の手打ちそばを馳走になったりとその味は今でもお蕎麦を食べるたびに思い出させてくれます。
毎年の東京黒百合会本展には大学同期の仲間たちが集まってくれ、銀座アートホール近くの居酒屋で酒を酌み交わし、「都ぞ弥生」を放歌高吟し旧交を温めるのが習わしであったね。ここ3年ほどはコロナ禍で東京黒百合展も開催されなかったりで会う機会も無かったが、時々電話では君の元気な声を聞かせてもらっていた。
今年突然君からの手紙(1月23日付)が届いた。便せん4枚に力強い筆字で年賀を兼ねたものでしたが、最後のページに「私の余命1月23日昼、3ヶ月との事です。さて後何が出来るでしょうか」と書いてあり愕然としすぐに電話しましたね。
君は入院中絵を描こうとF8号のスケッチブックを持ち込んだが1枚も描けないと、かなり混乱している様子で、私も気持ちを強く持ってと言っただけで言葉がありませんでした。それから1週間ほどで天国に召されるとは・・・。
日毎に寂しさがつのります。
柴野君 心からご冥福をお祈りいたします。
樋口正毅
上写真:1995.11.07 湯沢高原アルプスの里で熱心にスケッチする柴野君。
柴野さんを偲んで
このたびの柴野さんの訃報に接し、驚きと共に残念な思いで心を傷めております。
12月4日付けの手紙では緊急入院した後、肺に溜まった水を抜いて安定状態に戻った、そして安静を指示されたので正月を病院で静かに過ごす旨が書かれていました。
この状態なら近々復帰も可能なのでは、と思っていたのですが、年明けに容態は悪化の方向に傾き、1月22日付けの樋口さんへの手紙に「“急性悪性リンパ種”、余命3ヶ月の宣告を受けた」とありました。
1月27日に病室からTELをもらいましたが、声がかすれ良く聞き取れないような状態でした。
そして、4日後の1月31日に亡くなられた、との連絡が出身校松本深志高校の同窓会から樋口さんに届きました。
東京黒百合会の会員として、また人生の先輩としてまだまだご指導いただきたいと考えておりましたのに、思いもよらない報告を受け残念でなりません。
柴野さんは三年後の米寿にGAHで個展を開きたい、ということと、いつの日か安曇野を引き払う時、作品を処分する前に北大へ寄贈できればという意向がありました。
個展では思い入れの深い作品が選ばれるはずなので、そのリストを基に北大にコンタクトしてみるのはどうかと話し合っておりました。
加えてもう一つ残念に思っていることがあります。井上靖が「氷壁」の中で最も美しい景観と称えた安曇野の風景が何処なのか聴き損なったことです。
いつか探し当てて目にしたいと考えています。
我々家族は、娘一家が大町に移住したこともあって、短期間でしたが安曇野を訪ね創造性豊かなお話をうかがい良い時間を共有させていただきました。
まだまだ多くの交流を重ねられれば良かったのですが叶わぬことになってしまいました。
柴野さんは「書」にも親しまれ、ご本人の個性がそのまま表現された字体で書かれていました。
ある日、そのパネルを見せてくれました。
下にそれを添付します。
柴野さん!どうか安らかにお休みください。
2023・02/12 長谷川 脩
柴野さんのこと
昨年の小品展では若々しい作品を拝見し、昨秋の東京黒百合会展も元気でお目にかかったのに、訃報が届くとはとても残念です。
東京黒百合会に入った頃、柴野さんが「東京黒百合会第30回記念誌の編集をしておられて、新入りの私もお手伝いにかりだされました。
柴野さんの会社、池澤さんの事務所などで作業をした記憶があります。
私がマンション暮らしなので大きな絵は描けないと云うと、家に合せて絵を描くの?と言われて、釈然としない気持ちだったことを思いだします。
クリスチャンで、会報に美しい詩篇の一句を引用しておられたのが忘れられません。
「わたしは 山に向かって目をあける
わが助けは どこから来るのであろうか
わが助けは 天と地を造られた主から来る」
(第121篇)
晩年の安曇野の生活は心にかなったものだったことでしょう。
み魂 安かれと祈りつつ。
西沢 照子
柴野さんの作品
柴野さんは、水産学部卒なのに、典型的な農学部卒のプロと感ずる人柄と思う。
いつも農産物、チーズなど、畑の雰囲気が体に漂っていた。
安曇野に移って一生を経たことで、さぞ満足されたことと思います。
柴野さんの作品は、山の風景が多いが、キーポイントに力強く絵の具をどっさり
ぶっつけて、迫力のある作品でいつも魅せられた。
私は一つ大変なことを教わっている。
それは「絵を立てる」ということだ。
一般に空気遠近法等では、遠くの山や空は弱く描かれるが、この逆で図面の上部が全面に迫力をもって迫るように強く描くのである。
私は風景画のみならず、静物画でもこの点を気をつけて描いている。
ご冥福をお祈りします。
建脇 勉
柴野さんを悼んで
柴野さんの絵は、美しく力強い安曇野の自然が、いつも色彩豊かに生き生きと描かれていました。私は以前から北アルプスのすそ野に広がる安曇野を一度は訪れたいと思っていました。
それを知って柴野さんが声をかけてくださったので、2018年6月私は当地を訪れました。
柴野さんは早朝からの農作業を終えられてお疲れの中、私を田淵行男記念館、ちひろ美術館、そしてわさび園へと連れて行ってくださったのです。
北アルプスを見渡せる場所や柴野さんの畑にも案内してくださいました。
あの旅は今でも懐かしく思い出されます。
昨年の黒百合会展では、柴野さんは今の生活を88歳まで続けたいとおっしゃったと聞いております。88歳を待たずして神様のもとへ召されたことは(神様の御心であっても)残念でなりません。
そして他者を思いやる柴野さんの優しさに感謝しかありません。
ご冥福をお祈りいたします。
渡辺 理枝
柴野さん 大変お世話様になりました
私が東京黒百合会に入会したての30代前半の頃、私の絵は大変拙く、そして訳の分からな
い絵をいつも描いておりました。
そんな時、柴野さんからは「それでいいんだよ」と毎回、励まして頂きました。
当時千葉の稲毛に住んでおり柴野さんのお宅も近かったものですから、会展の時はいつも、
今は亡き中岡さんと柴野さんの車に乗せて頂き、会場までお世話になりました。
又柴野さんは熱心なプロテスタントの無協会派を信仰されておりましたので私と同郷でも
あり北大の偉人の内村鑑三先輩の話をたくさん伺う事が出来ました。
いつも大らかな気持ちと優しい眼差しで人生の事や絵の道へと導いて下さった事を心より感謝申し上げる次第です。
東京での個展の開催の予定をとてもうれしそうにお話しされていた柴野さんの姿が目に浮び、とても悲しい思いです。
あまりにも突然の訃報にて、その夢が実現しなかった事が残念でなりません。
東京黒百合会にも多大な足跡を残し、貢献されて、旅立ってしまった柴野先輩、大変お疲れ様でした。
安らかにお眠り下さい。
細井 真澄
下図:蚕糸の森公園(東高円寺駅前)
1995年1月 東京エルム新聞
(「風景との対話」から)
―――絵: 柴野さん
柴野道夫さんを悼んで
柴野さんとは、北翔展でご一緒し作品展示に加わって以来でした。
画風はその頃から変わらず、力強い筆のタッチが特徴でした。2019年秋に松本で開催された規模の大きい個展を拝見し、柴野さんの全てがわかったような気がしました。絵以外に書文字での詩表現、著作等多彩でした。
柴野さんはふるさとを愛し、故郷の自然を常に意識していました。柴野さんのエッセイを読んでいてもそのことがひしひしと伝わりました。
人脈が広くその原点が地元の高校にあり、地元では広範囲に活躍されていました。
北大に入ったのも自然という共通点があったからかもしれません。展覧会で農産物を持ち込む等、農業を通して自然物に対する愛着を強く感じました。昨年の東京黒百合展は、コロナ禍ではありましたが、神様が会員相互に会うように仕向けた展覧会であったでしょうか、その展覧会でお会いして半年も経たずの急逝。
あまりにも無常です。
東京で松本並みの個展を開催したいと夢を持ち、その心準備をされていたようですが叶いませんでした。本会において特徴のある会員を失ったことは誠に残念至極であります。
心からご冥福をお祈り申し上げます。合掌
23.2.7 牧野 尊敏
下図;東京湾岸の風景
1991年6月 東京エルム新聞
(「風景との対話」から)
―――絵: 柴野さん
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