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執筆者の写真東京黒百合会

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――人の道を照らし続ける武士道の光----    

                          小石浩治


1・平安後期・鎌倉時代

“あれは大将軍とこそ見参らせ候え、返させ給え”と扇を上げて招きければ、招かれ とって返す。

(「平家物語」NHKテキスト・安田登/能楽師から)


              揚州周廷画=歌川国芳の門人

―-―己の組み敷ける須磨の浦の激戦(1184年)の時、彼(熊谷次郎直実)は一人の敵將を追いかけ、たくましき

腕に組んで伏せた。組み敷いた者に比し、力量劣らぬ剛の者でなければ血を流さぬ事が戦場の作法であったから、この猛き武士は己の組み敷ける人の名を知ろうと欲した。しかし名乗りを拒むので兜を押し上げて見るに、髭も未だなき若者の顔が現れた。武士は驚き手を緩めて彼を扶け起し、父親のごとき声をもって少年に「行け」と言った。「あな美しの若殿や、御母のもとへ落ちさせ給え」。若き武士は去るを拒み「己の首を打たれよ」と熊谷に乞うた。―(「武士道」第五章・.仁)この若武者は十五歳の平敦盛だった。自分の息子くらいの歳である若者を殺していいものかどうか。戦いは終わり、直実は凱旋した。だが、もはや報償や功名に心を傾ける事はなく、その後、武勲に輝く軍歴を捨て、手にかけた若者を悼んで出家してしまう。

 このような敗者、弱者への共感の涙。武士道で言う惻隠に近いものが、今も日本人の心の中に流れている。


2・ 戦国時代                                     映画・「七人の侍」は<野伏せり>の襲来に怯える百姓たちが侍(浪人)を雇って撃退する・という粗筋。映画の中で、野伏の襲撃に備えて、川向こうの離れ家三軒の住人たちが自分の家を捨てて村を守らなければならないことに反発し、槍を捨てて集団から離れようとしたその時、七人の侍のリーダー・勘兵衛が血相を変えて刀を抜き放ち、立ち去ろうとする村人たちに駆け寄ると、“己のことばかり考える奴は己をも滅ぼす奴だ!”と裂帛の気合いでもって列に押し戻す場面。その日の食い物にも窮する浪人、同じく日々の安定した暮らしを壊す野伏に苦しむ百姓の頼みに応えて、百姓の加勢に応ずる・・「義を見てせざるは勇なきなり」、まさに日本の武士道の根本である。この映画は、国境や民族を超え、“義に生きる”侍の理想像を見せた作品と思う。ご存じ四十七人の忠臣も四十七人の“義士”としても知られている。しかし新渡戸は「正義の道理から始まった“義理”は私の考えではしばしば詭弁に屈服してしまった。」と嘆く。それは本来、正しい道理を指す言葉であり、両親や目上、目下の人達、社会全般に対して負っている義務の事だ。例えば、主君が過ちを犯せば諫言(かんげん)する事が家臣 本来の義理を全うする事だったが、正し い道理から離れ、社会的な立場上遂行しなければならないという義務、やむを得ない言動・という事に堕落してしまったことだ。(「武士道」第三章・“義”)


3・ 江戸時代から明治へ

長州藩の下級武士の家に生まれた吉田松陰は、9歳で明倫館の「山鹿流兵学」師範となるほどの秀才だった。明倫館は藩政を担う藩士育成のための教育であったが、士分と認められた者しか入学できず、町民、農民、足軽・中間等は入学できなかった。一方、松陰の叔父の開いた私塾・松下塾は、身分の隔てなく塾生を受け入れた。1856年(安政4年)より明倫館塾頭を務めた吉田松陰が同塾を引き継いだ。諸国遊学を経て下田で密航に失敗して獄に入れられた後のことである。

 この期間に高杉晋作、久坂玄瑞、山形有朋ら優秀な門弟たちを育てた。松陰は“熱気あふれる学び合う場”を作った。次の歌は松陰の(安政の大獄による)刑死前夜の歌と言う。享年30歳。

 “かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂”

本居宣長(江戸時代中期・国学者)に我が国民の無言の言をば表現した歌がある。

 “敷島の大和心を人問うはば朝日に匂う山桜花”~~(武士道第十五章)

――武士道は一つの独立した道徳の掟、その武勇と文徳の教訓は解体されるかもしれない。しかし

その光と栄誉はその廃墟を超えて蘇生するに違いない。あの象徴たる桜の花の様に、四方の風に吹かれた後、人生を豊かにする芳香を運んで人間を祝福し続けることだろう。(「武士道」第十七章)


4. “武士道は一つの無意識的なるかつ抵抗しがたき力として、国民及び個人を動かしてきた。

(あなたのお国の学校には宗教教育はない・・と仰るのですか、宗教なし?! どうして道徳教育を授けるのですか)とベルギーの法学者に質問された。また妻・メリー夫人(日本名・萬里子)からもしばしば質問をうけ「武士道」第一版を出すに至った” 新渡戸稲造著「武士道」序文/1900年・明33/刊行)

 二度目の来日の時、メリー夫人の協力により修学出来ない児童、貧しい少年たちのために遠友夜学校を設立した(1894年・明治27)。夜学校の前身は、札幌独立基督教会有志が作った「豊平日曜学校」を新渡戸夫妻が引き継いだもの。論語の「友あり、遠方より来る。また楽しからずや」にちなんで遠友夜学校と名付ける。初代校長は新渡戸稲造。新渡戸の死(72歳)後、第2代校長にメリー夫人が就任。(4年後逝去・81歳)

 新渡戸夫妻ともに基督教信者のもつ「慈愛の心、全ての人に慈愛を」の精神が夜学校創立の根底にあったからかと思う。

 1918年 (大正7年)開学の東京女子大は、「犠牲と奉仕」という基督教精神を教育理念として創立され,18年前に「武士道」を書き上げた新渡戸稲造が初代学長となった。古来の良妻賢母型を強いられた女性は、これからは、目先の知識や技術の習得だけではなく、物事の根本や原理へと立ち帰って考える力、周囲を理解する力、困難な状況にあってもき然として決断し責任を担う力を養おう―“知識より見識、学問より人格、人格より人物”にと訓示したという。(卒業生に森英恵、瀬戸内寂聴、竹下恵子等がいる。)

★ 去る3/16日、ドキュメンタリー映画「新渡戸の夢」の試写会に参加する機会を得た。

映画の内容は、現在の市民講座・平成遠友夜学校、札幌遠友塾自主夜学校の生徒と先生達が楽しく算術や英語を学ぶ様子が生き生きと映し出されていた。印象に残ったのは教壇に立って黒板に算術の原理を図解して見せると、2,3人の助手(ボランテイアの学生達)が解答に困っている生徒に付き添い、生徒の目線にあわせて助言している場面であった。それも生徒が<問題が解けるまで離れず、解けたら二人でハイタッチして喜び合う・・。参加した生徒達の問題が解けるまで待ち、科目を先に進めない授業方法・・。これこそ生徒の“学び”の原動力であり、「教育」の根本だと思う。


注: 参考文献: 「武士道」新渡戸稲造著・矢内原忠雄・訳(岩波文庫)

         「武士道」新渡戸稲造著・奈良本辰也・訳・解説(三笠書房)

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