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執筆者の写真東京黒百合会

寄稿 「金婚の日」[二]の二

長谷部 司

 そんな啓吾が父を初めて許す気持ちになったのは大学三年の時だった。入学して直ぐ入部した山岳部で同期の親友が一年目に遭難死するという事件を切っ掛けに山岳部が閉部となり、やむを得ず写真クラブに移って二年目、初めての個展を開いた時のことである。写真の対象はアルバイトで介護している重度の障害者の二十四時間で、東京からわざわざ出向いてくれた父は黙って一枚一枚展示した写真を見ていた。他の来場者への応対が終わって父の姿を探すとキッチンに続く柱の陰に父の背中が見えた。「パパ」と声をかけたが答えがない。もう一度声を掛けたがそれでも答えない。

 父の肩に手を掛けて顔をのぞきこもうとした時、誰かが袖を引っ張った。振り向くと母が顔を横にふっている。「パパ、泣っきっきなのよ。ほっときましょ」確かに父の背中は嗚咽で震えていた。この時から啓吾は父を父として許すことにした。いや、既に許していた。啓吾なりに真剣に撮った写真を見て父が泣いてくれたのだ。父が何を感じ、どんな理由で泣いていたのかは判らなかったが、啓吾にとってこれ以上何を求めることがあるのか。

 この時から父が啓吾の中に少しずつ戻って来たように思う。そしてその後啓吾が結婚したいと思った女との付き合いをめぐって母や姉との間に越え難い溝が出来た時、はじめて父が啓吾を対等な一人の男として理解してくれる存在であることを知った。結果としてその結婚は実らなかったが、それ以後は二人で酒を飲んで男同士なんでも話し合える間になったとおもっている。一方、父と姉との間には、双方でいくら努力しあっても解決できない、感情的にこじれてしまった親子の問題があるようだ。そのことに触れて父が言ったことがある。  「今でも忘れられない。お前が生まれるずっと前の、容子がまだ三つぐらいの時だった。ママも側にいたかも知れない。なんでそういうことになったのかも覚えていないが、容子が突然パパに向かって拳を突き出して「鉄砲ズドン、火がボーボー。鉄砲ズドン、火がボーボー」と繰り返したのだよ。そして燃える火をパパの方に煽り立てるように幼い手を動かしながら、怒りを漲らせた目でパパを睨みつけたのだよ」そこで言葉を切って父は目をとじた。「あの時の容子の言葉と、激しい動作と、怒りの目付きはいまでも忘れられない。きっと死ぬまで忘れられないだろう。幼児の言葉として冗談に紛らわすには、あまりに激しい怒りと憎しみに満ちていたから。幼心にも、自分を、あるいは母親を、あるいは自分と母親の両方を脅かす存在であるパパに向かって、全身で怒りを表したとしか思えない。それなのに、そして非は全て父親の自分の方にあるに違いないことを自覚していたのに、パパも思わず憎しみで、三歳の我が子を睨み返してしまったのだ。これは取り返しのつくことでは無いのだよ、啓吾。なぜ、あの時「参った。参った。降参。降参。容子様。パパが悪うございました。どうか堪忍してくださいませ」とでも言って抱き上げてあげられなかったのか。いくら悔やんでも悔やみ切れない。そうしなかった事実はどうしようもない。この時の親としての負い目がパパの心を容子から隔ててしまった。隔てられてしまった容子は可愛そうにどうしていいのかわからなくなってしまったに違いない」確かに現在の父と姉の関係は、互いに心の深所に触れない表面で気遣い合っているだけのように見える。「今更深刻なこと話し合ったところで、どうせなんにも解決出来はしないわ。傷つけ合う結果になるだけなのだから、止めましょ」と言うのが姉の口癖になっている。

 他方父と母の関係については本当のところはよくわからない。僕が高校生の頃父が折に触れて「パパにはママのように愛がないから」と露悪的に言っていたが、最近は聞かなくなっている。母が離婚を口に出し始めたのは、この一、二年のことだが、これもなぜ金婚を目前にした今なのかまったく理解できない。「容子も啓吾も立派に育て上げてもう何の心配もないし、パパもこれから一人で充分生きていけるから大丈夫。それに私も京都が好きで京都で亡くなったおじいちゃまの墓守りをしたいから」というのが母の表向きの理由だが、これに対する父のいい分はこうである。「一つ家に一緒に住んでいる今だって、ママは好きな時に家を空け、したいことも自由にしていて、実質は別々に住んでいるのと変わりない。今更別居の必要もなかろうと思うが、どうしても京都に住みたいというのならばそれもいいだろう。しかし離婚には賛成しないよ。どちらが何時死んでも可笑しくない歳になって離婚なんてナンセンスじゃないか。経済的にもなんのメリットもない。もっとも籍も姓も結婚前に戻りたい。墓も一緒は嫌というなら話は別だが。しかしそれも時間切れだと思って欲しい。そんなにパパとの関係を切りたかったのならば、十年前にパパが退職した時や、さらにその八年前に都心に部屋を借りて単身赴任した時に何故離婚しなかったのか。なぜこの期に及んでなのか、全く理解出来ないじゃないか」というわけで、我が家はいろいろな問題を抱えたまま金婚の日を迎える仕儀となってしまったのである。

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