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  • 執筆者の写真東京黒百合会

寄稿

“山と原野とスケッチと・坂本直行”        長谷川 脩


 今年1月NHKのEテレとBSプレミアムで表題の番組(ほぼ同内容)が放送された。北大出身で主に道内で活躍されたので、ご覧になった方も多かったのでは。これを文章にまとめるに至ったのは、入院中の柴野さんから放送されることを東京黒百合会にも伝えて欲しいと依頼の電話をもらったことによる。以下、放送内容の概要と、今になって想像する柴野さんの意向を考えながらまとめた。



晩年の坂本直行

入植地の日高を離れ札幌で絵に専念した頃


 直行(なおゆき)は、幕末の土佐藩志士で有名な坂本竜馬(直柔:なおなり)の子孫に当たるそうで、彼はこのことを生涯話さなかったらしい。高知にある「竜馬記念館」でも彼の画業紹介の展示会が開かれたとのこと。周りの人は親しみをこめ「ちょっこうさん」と呼んだ。今もこの呼び名は続いている。

 1906年父弥太郎の次男として釧路で生まれた。父は当時、北の森林資源を生かし木材界で財を成した。彼は息子達に社会の人材となるよう勧め長男は役人に、三男は教授に、だが直行は自然の美しさに惹かれ園芸関連の道へ。しかし1929年世界恐慌は父の事業をも痛打し、直行との約束であった資金援助が無くなる。この時、友人の誘いで訪れたのが日高で、150kmも続く日高山脈の風景に心酔し、借金をして25haの原野を購入した。


横の線ばかりで手のつけようがないと嘆いた日高の風景


 29歳で夢を抱いて入植、ジャガイモ、ソバしか育たない原野を開墾し生計を立てる生活は困難をきわめた。シューベルトの「冬の旅」に慰められ、1本の鉛筆で五銭のノートに寸暇を惜しんで野草を描き、日高の山々に登り、そこでのスケッチも大量に残した。山の原体験は、13歳の時に羊蹄山で見た日ノ出の光景だった。その後、北大山岳部では道内大半の山を制覇している。


忠別岳(1963m),1926








日高山脈の主峰・幌尻岳(2052m),1963


 野良仕事が一段落すると、当時まだ避難小屋も登山道も無い日高の山々に登り、大いなる自然への恐れ、憧れとともに絵を描いた。そこでの様子をまるで詩人のような言葉で残している。

「静寂と清潔で鮮明な色彩、何か懐古的なイメージと多彩な詩情を豊かに包む空間が、旅人の心に安らかな呼吸を与えずにはおかない。峰を包む気まぐれな雲が、斜陽を浴びてピンクの光を放ち、音もなくこの大きな空間に流れ込んでは消える。こんな雰囲気の中で、人間の行動はなんと美しく見えることだろう。」

圧倒的な自然の前では人間は無力だ。しかし、その中でこそ自らの命がゆさぶられ力を与えられる、ということを直行は実感していたに違いない。

直行の人柄に惹かれて多くの人が訪ねて来た。彼は、来る者拒まずの姿勢で食事と寝床を提供して歓待したらしい。日高の家には宿帳のようなものがあって、そこには440名もの人々が感想を綴っている。火の車の家計を度外視したもてなしは、どれほど山男を勇気づけたことだろう。

後年、彼を訪ねてきた人物に彫刻家の峯孝と六花亭の創業者小田豊四郎がいた。峯は酪農家のモデルを探しに来たが、直行の絵を見て「画家として生活しては?」と提案し、小田は十勝の子供の詩集の表紙を描いてくれないかと依頼をした。峯の提案は札幌での個展開催の実現に結びつき、小田の要望はその後22年間、毎月子供の詩集「サイロ」の表紙を飾ることになる。徐々に彼の絵が認められ、昭和11年から続けた十勝の生活に終止符を打ち、昭和35年離農を決断し札幌で画家としての生活を踏み出すことになる。

 日高で画材が買えない状態でも描くことをやめずに積みあがった膨大なデッサン。花、樹木、農作業の様子、そして日高の山々の絵は好評をもって迎えられ、借金はまもなく返済完了。六花亭は、「捨てる前にもう一度眺めてもらえる包装紙が作れないか」と要望を出した。直行は、日高で描いた素朴な草花の絵を切り取って台紙に張り付けたものを提出した。素朴な草花が生き生きと描かれていて誰が見ても惹かれる。そして、この包み紙でどこのお菓子かすぐに分かるまでになった。

     直行の花柄デザインの六花亭包装紙

 帯広に本店がある六花亭は「お菓子は文化のバロメータ」という思いで、絵、音楽、図書などの文化活動にも積極的である。美術館、図書施設の企画・運営を各所で行い、専用ホールで講演会、コンサート、寄席の開催等に取り組んでいる。小田が依頼した詩集の表紙絵を無償で描いて以来、二人が意気投合したことが良く分かる。

 旭川.富良野.十勝を結ぶ北海道ガーデン街道南端の地に、花柄包装紙に描かれた草花でいっぱいの森を作るとの意図で100,000㎡の広大な土地に「六花*の森」(*六花:エゾリンドウ,ハマナス,オオバナノエンレイソウ,カタクリ,エゾリュウキンカ,シラネアオイ)が作られた。その中に「坂本直行記念館」「直行山岳館」「直行デッサン館」「花柄包装紙館」「サイロ表紙絵館」がある。夢中で描いた絵の大部分がこのような所に保管され公開されていることは、直行にとってこのうえない幸せなことである。ピッケル等を含む資料は、北大山岳館に保存されている。

 日高山脈を描いた絵は千枚を越えるらしいが、その中で年代、号数、場所も異なる3枚の絵が存在する。それらの大きさを揃えて繋ぎあわせると日高の山並みが現れるものが紹介されていた。

  3枚が繋がった日高山脈

 横の線ばかり、と嘆いた日高の山々は彼にとってどれ程の親しみと喜びを与えてくれるものだったかが想像できる。日高山脈と原野が全ての辛さを忘れさせてくれるものだったに違いない。農民画家とも山岳画家とも言われた76年の生涯の絶筆もまた日高の山々だった。

    絶筆のカンバス

 柴野さんからこの放送のことの電話連絡があったのは亡くなられる4日前である。病床での想いには、引き継いだ土地で農作業にいそしみ、安曇野の自然を満喫して絵に没頭した日々が去来したことだろう。自分の姿を直行に重ね合わせていたのかもしれない。柴野さんも豊かな自然と共に力の限りを尽くして格闘し、豊穣な成果を生み出した点で幸せな人生だったと想像している。

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