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執筆者の写真東京黒百合会

寄稿 「金婚の日」[ 一]

長谷部 司

 「のぞみ」は早くも富士川を渡るところだった。

やっと書き終わった両親へのメッセージを読み返してみた。 



       富士川橋梁を渡る「のぞみ」

 

 パパとママへ ― 金婚式に寄せて ―

 今日は天気にも恵まれ、晴れ晴れとした気持ちで京都を発ちました。時代祭と鞍馬の火祭が重なる日とあって、街はごったがえしておりました。


  鞍馬の火祭

 今日で御結婚五十周年を迎えられました。殆どの人が味わうことの出来ない金婚式、本当にお目出度うございます。綺麗事ではなく「家族」としての形を、これほどの永きにわたって守り続けてこられたこと、尋常なことではございません。心の底から尊敬、いやむしろ感謝いたしております。

 今日まで僕は「今の一瞬」にこだわるあまりに、なかば狂気の日々を送って来てしまいました。一瞬一瞬の「巣作り」に奔走し、結局は全て記憶もしくは忘却のかなたへ。間に合うかどうか神のみぞ知るですが、いつか僕も生きる動機の源となる「形」を見つけられたら幸いです。最高のお手本が最も身近にいて下さる限り、まだまだ希望を持てそうです。

 パパ、ママのお二人がご存命であること、この目に見えない絶対的な安心感を、やっと最近意識するようになりました。意識しない時間の経過、これ「幸せ」の一つの証であるとともに、所詮は「生き物」にすぎない人間の悲しい性と思います。「生き物」としての劫」。これを僕も受け入れざるを得ないようです。

 今日の記念撮影、僕自らが欠けることなく、四人全員で写り込めることを誇りに思います。写真が後々発揮する力の大きさを思えば、撮影後はほっとして大きな脱力感を覚えることでしょう。

 これでパパとママ、僕と姉の四人家族に、ひとまず永遠の命が吹き込まれる訳で、この「安心感」は何物にも代え難いと思っています。

 パパとママは今朝どのような朝を迎えられたのでしょうか。お二人なりの「合図」があったかと思われます。ご夫婦羨ましい限りです。

深遠な無意識なレベルでの生き物としての巣。五十年とはそう言うことかと思っております。人間は自ら思う程にはバランス感覚がないため、「形」の大切さをともすれば忘れてしまいますね。

 これから幾十年。パパとママはただ共に生きていて下されば十分です。言葉や心、このような類は言わば人間の病、生き物として共に過ごし、共に生きる。価値があるのはただこれだけでしょう。

 僕たち姉弟という二本の支えは勿論ながら、もっとも身近で頼りになる伴侶という支えがお互いに一本あることを忘れないで頂きたいと思います。「おのれ自身だけを「支え」とすると物理的にもバランスが悪いことをお忘れなく。

 改めて今日という一日を授かり本当に感謝いたしております。そして今後もお二人の存在で僕のことを目いっぱい支えて頂けるよう願っております。

 ハハハ。              啓吾より

 愛するパパとママへ。

 読み終わって、われながら大仰な表現に少々歯が浮く思いだったが、このくらい書かないとアピールしないだろうし、まあ本当の気持ちを書いたのだから、これでいいと思っている。それに、なんとしても今日一日を、ハレの金婚の日として成功させなければ。   (長谷部さんの私文集「青林檎」より、九章まで続く)


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