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執筆者の写真東京黒百合会

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没後50年 鏑木清方展 (2022年3/18~5/8 東京国立美術館)

               小石浩治


Ⅰ. 鏑木清方は上村松園と並んで近代日本画の基礎を築いた画家であり最後の浮世絵師とも呼ばれる。

略歴――― 1878年東京・神田生まれ、13歳で水野年方(浮世絵師)に入門、2年後「清方」の雅号を贈られた。17歳頃、父の経営する(やまと新聞)に挿絵を描き始め、続いて地方新聞や雑誌等に挿絵を描き、十代にしてプロの挿絵画家として活躍した。新聞創刊後まもなく掲載始めた三遊亭圓朝の落語?講談の口述筆記の手伝いまでするようになる。1901年23歳、泉鏡花と知り合い、その挿絵を描いたことや幼少時の環境からも終生、江戸情緒、浮世絵の美とは離れることがなかった。

 この頃から「本絵」(挿絵に対する独立した絵画作品の意)の制作に取り組み始める。

初期の代表作に「一葉女史の墓」がある。1927年第8回帝展で「築地明石町」は帝国美術賞受賞、この頃から大家としての評価が定まったが、その後も本絵の制作の傍ら挿絵画家としての活動も続けた。1934年清方56歳のとき、家庭のちゃぶ台で広げ、筆遣い・色使いを楽しむような芸術があってよいのではないか。大展覧会で目立つ「会場芸術」に対し、「卓上芸術」と名付けた典型的な例が一葉の「にごりえ」の挿絵だった。1937年に帝国芸術院会員、1944年帝室技芸員となる。

 戦争が本格化すると、美人画は非国策画と決めつけられ、発表するのが憚られるようになった。代わって風俗画を描くようになるが、風俗画には物語の挿絵と共通する部分もあり、清方にとっては得意分野だったに違いない。第二次大戦の空襲で自宅が焼け、終戦後1946年から鎌倉雪ノ下に自宅を構え、晩年は同地に住んだ。清方は自分がこよなく愛した東京の下町風俗、当世風の美人を終生描き続け、戦後も日展を中心として作品の発表を続けた。1954年文化勲章受章。

 1972年、雪の下の自宅で老衰により93歳で没す。自宅跡には鎌倉市“鏑木清方記念美術館”が建つ。(参考資料:「鏑木清方」日本の名画/中央公論社刊)


Ⅱ. 肖像画

 「三遊亭圓朝」は清方の父の友人で、清方の挿絵画家の道へ後押ししてくれた恩人であった。

図① 圓朝が白湯を口にし、これから口演に入ろうとする一瞬の、風格に満ちた表情を写し捉えた。清方は52歳の時、肖像画の傑作とされる圓朝像を手掛け、尊敬と感謝の思いを作品に託した。

図② 「一葉」没後約半世紀を経過した後の、昭和15年開催の紀元二千六百年奉祝展への出品作。


       ①「三遊亭圓朝像」     ②「一 葉」 清方63歳の時の作

  (昭和5年1930年作 重要文化財) (昭和15年1940年作 モデルは一葉の妹と言う)


Ⅲ.  物語など


③「一葉女史の墓」1902年(明35年)25歳

一葉が明治29年に25歳で夭折した時、清方は19歳、挿絵

画家としては駆け出しの頃で、直接に会う機会はなかった。

しかし清方の一葉に対する心酔は並大抵ではなく、「たけくらべ」など、全文を暗誦できるほどに繰り返し愛読したと言う。この作品の成る前、泉鏡花と初めて出会い、鏡花の随筆「一葉の墓」に誘われて、とある日、築地本願寺の墓所を詣でた。その時、 初冬の夜、三日月のほの明りの中をまぼろしの美登利(「たけくらべ」のヒロイン)が現れ、信如が別れのしるしに残した造花の水仙を胸に、作者・一葉の墓に倚りかかる・・という構想が生まれた。モデルは清方の親友の奥様だったと言う。

(注)「たけくらべ」・・美登利は勝気な女性だが吉原の遊女を姉に持つ。信如は僧侶を父に持つ15歳の少年。いずれは僧として生きていくことが決められている運命。  

大人になっていく子供たちの成長と年月のはかなさを描いた作品。

 

  Ⅳ.  自信作

  

④「ためさるる日」1918年(大正7)

第12回文展に「ためさるる日」を出品して”推薦”となり、以後、清方は無鑑査の特典が与えられた。翌年帝展と名を改めた官展の審査員となった清方は、ここに画壇の地位を確立させた。 遊女の(宗門改め)を毎年正月に長崎の丸山遊女の絵踏みがなされたが、幕末には一種の行事化して、馴染みの客から贈られた豪華な絵踏みの衣装に妍を競い合う 廓風俗の一つになった。 今しも異教の神の像に足をかけようとする 憂色の遊女(左幅)と背後に順を

待つ二人(右幅) を 二幅の対幅として表している。

この作品は清方が“会心の作”と自己評価した絵である。 












 

Ⅴ. 挿絵から近代美人画、そして下町風俗画清方が幼少期に過ごした築地界隈は、劇界の人、富裕な教養人が多く住む、文化的な雰囲気に恵まれた地域だった。ことに外国人居留地の置かれた明石町一帯は異国情緒にあふれ、文明開化の清新な空気が、肌身に感じられたところだったと言う。 今回展の目玉の一つ、図A「築地明石町」1927年 は長く行方知らずになっていたが、3年前に再発見されたそうだ。 

 この絵を手掛ける前、関東大震災で東京の街は焼け野原になり、やがて時代は昭和に代わる。この頃から清方は少年期から青年期にかけて過ごした明治の東京を繰り返し回想し、下町風俗庶民、日常の生活風物詩を哀惜の情を込めて再現する作品に意を集めていくようになる。清方は会場芸術と“床の間”芸術との他に、新たに認識さるべきは卓上芸術だと考え、清方愛する鏡花や一葉の小説を絵巻物風に抜粋、小品画(卓上芸術)の制作に向かっていく。  

 図⑤一葉の「にごりえ」(昭9)

(主人公”お力”が前の恋人・源七に代わる客・朝之助を座敷に引き留める場面か)

左から図A「築地明石町」1927年(昭2)帝展・帝国美術院賞

   図B 「浜町河岸」1930年(昭5)

   図C「新富町」1930年(昭5)


  「鰯(いわし)」1937年(昭12)60歳


           「雛市」1901年(明34)23歳

  

“ もとめられて画く場合いわゆる美人画が多いけれども 自分の興味を置くところは        生活にある それも中層以下の階級の生活に 最も惹かるる“ ―――清方(57歳時)




「朝夕安居」1948年(昭23)紙本着彩 画巻 46×308cm 第4回日展出品 71歳            


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