投稿
- 東京黒百合会

- 10月4日
- 読了時間: 7分
上村松園 生誕150周年記念展・3/29~6/1---大阪中之島美術館
小石浩治
明治から昭和にかけて西欧美術の摂取など、大きく揺れ動いた日本画壇の中にあって、時代の波に翻弄されることなく美人画と言う世界に名をはせた画家・上村松園の150周年記念展が大阪で開催された。
[ “一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところである” ](青眉抄※)と言った松園の初期から晩年までの100件余の優品を2ケ月にわたり展示する。
〇 松園は明治8年、京都四条御幸町にある“葉茶屋”の次女(津禰)として生まれた。父は彼女が生まれる二ケ月前に世を去り、その後は気丈な母,仲の手によって育てられた。母は松園にとって父であり、最良の理解者であり、彼女の芸術を生んでくれた人であった。嫁入りだけが女の最善の生き方であった当時の風潮の中で、親戚の反対に屈せずに、松園に絵の道を歩ませた芯の強い人だった。そうした強さを松園も受け継いだようだ。当時の葉茶屋は、いわばサロンの趣を呈していた。立ち寄る客も、教養ある文化人が少なくなかったという。葉茶屋で茶を喫しつつ、幼い絵の好きな娘に暖かい目を注ぎ、何くれとなく世話を焼く。これが千年の間、守り続けてきた京の文化 の姿であったのだろう。

「16歳・松園自画像」とサインがある
12歳の時、京都府立画学校へ入学、鈴木松年の教えを受ける。翌年、
画学校を退学、竹内栖鳳塾へ移った。栖鳳は門弟たちに「写生をやれ」
とうるさく言い、しばしば写生旅行を行い、松園も一緒に出かけた。
明治23年 15歳の時、第3回内国博覧会に四季美人図を出品、一等褒状
を受けた。華々しいデビューである。

「四季美人図」
作品は四人の女性がそれぞれ春夏秋冬の一時季を表している。
一番手前は春の年端の若い娘を描き、夏は前の娘よりいくらか年上の島田を結った姿、秋には中年女性として落ち着いた着物の色にして静寂な気分を漂わせ、最後の冬になると雪中の絵の軸物を見ているところ・・
と、女性の年齢に合わせて季節を描き分けたものと言う。15歳で構図をとり人物を描き分けていたのだ。
その後、毎年のように日本美術協会展に出品し、24歳の時には、日本絵画協会、日本美術院連合展に「人生の花」を出品して銀牌を受けている。
これは、嫁入りの娘が付き添いの母とこれから式場へ向かう姿を描いたもので、東京側の作家(鏑木清方、安田靫彦等)は、その絵の清新さに驚いたそうだ。(西・松園に対する東・鏑木清方は明治11年生まれ、松園の3年年下である。)
〇 松園は、展覧会出品の度に話題を呼び、褒賞を受け、明治期に巽画会審査員、大正期に帝展審査員、昭和期には帝展参与、帝国芸術院会員、さらに日展審査員、昭23年には文化勲章を受けるなど、日本画壇でただ一人、女性の「美人画」画家となった。
上記記念展の各期の話題作、褒賞作品いくつもあるが、本誌では私個人の気に入った作品を掲げてみた。
参考資料:日本の名画・第9巻「上村松園」 中央公論社刊
※ 「青眉抄」:1943・昭和18年初版 松園の随筆、松園の談話の記録、
青眉とは結婚した女性が眉をそり落とすこと。松園は古いしきたりが失せるのを惜しんだ。
明治期の作品
1900・明治33年25歳の時、右図「粧」を描く。
松園は栖鳳の門に入り、栖鳳(「班猫」を描いた)で写生することを喧しく教えられた。着物のしわ、襟元のみだれ、帯締の垂れ具合等念入りに写生したことによって描かれている。化粧に熱心なあまり、着付けの乱れにも気が付かないところ等、娘らしさがよく出ている。
後年の作品にもこのような徹底した写実精神が根底にあるようだ。
1902・明治35年 27歳の時、嗣子慎太郎(松篁)出生。
1904・明治35年、29歳の時、「遊女亀遊」制作。松園は亀遊が遊女の身でありなが
ら毅然とした意志をもち、大和撫子の心意気に感銘して筆を執った。
1907年「虫の音」1908年「月影」
1910年日英博覧会に「花見」を出品、1911年「人形つかい」を出品、1913年文展に「蛍」を出品、
1914・大正3年に「娘深雪」を出品、この頃、金剛巌に謡曲をならう。
大正期の作品
1915・大正4年、40歳の時、「花筐」制作。謡曲“花筐”から取材した。皇子の寵愛を受けた照日の前が皇子の後を慕って形見に頂いた花筐と手紙を携え、上洛の旅に出る。たまたま途中で君の行幸に行き会い、御前で狂人の舞を舞った。それを見て哀れに思った君は、再び照日の前を召し使われることとなった。
この作品は照日の前が狂人の舞を舞っているところ。これを描くために、わざわざ精神病院を訪れて、狂人の表情を観察し、スケッチしたものと言う。狂人の顔には能面と共通した無表情に近いものがあると知り、能面を参考にして、生きた人間の顔を作り出したという。

「花筐」(花がたみ)
1918・大正7年、44歳の時、「焔」制作。源氏物語「葵」を基にしたもの。

「焔」
「―この絵は私の数ある絵のうち、たった一枚の凄艶な絵であります。中年女の嫉妬の炎・・一念が燃え上って炎のように焼け付く形相を描いたものであります。--あの頃は私の芸術上にもスランプが来て、どうにも切り抜けられない苦しみをああいう画材に求めて、それに一念をぶち込んだのであります」
(青眉抄)と言う。また謡曲・金剛流・金剛厳氏は-----[能の嫉妬の美人の顔は眼の白眼のところに特に金泥を入れている。これを“泥眼”と言ってますが、金が光るたびに異様な輝き、閃きがある。また涙がたまっている表情に見えると話しましたところ、松園さんは、絹の裏から金を入れたのです。そのため不思議な味が絵に出ています。昔から世評の喧しかったり世間の思惑を気にして、突っ切ることができないものですが、それを貫いてやるところに松園さんの性格の強さがあると思う](昭和17年・談)
昭和期の作品
1934・昭和9年59歳の時、最愛の母・仲 が数え86歳で死去。
「私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」(青眉抄)
松園は母が発病して不自由な身体になってからは数年にわたるその看病を決して人任せにはしなかったという。その間、絵の仕事も休んでいる。
亡き母への追慕と、松園を育んだ過ぎし良き時代の京の町への懐古を交え、この年の帝展に出品した。

「母子」
明治初期の京、中京の商家、かなり裕福な大店の女房であろうか、青く剃った眉と鉄漿(おはぐろ)が のぞく口許は、一心にわが子に注がれている 。この絵は政府お買い上げとなり、また この絵は1980年の50 円切手にもなっている。
1936/昭和11年・61歳の時、「序の舞」を文展招待展に出品。
「この絵は現代上流家庭の令嬢風俗を描いた作品ですが、仕舞の中でも
序の舞はごく静かで上品な気分のするものですから、そこを狙って優美な
うちにも毅然として犯しがたい女性の気品を描いたつもりです。(中略)
なにものにも犯されない、女性のうちに潜む強い意志を、この絵に表現し
たかったのです。」(青眉抄) モデルは松篁の妻や謡の先生の弟子等にしたとのこと。

「序の舞」
京都で一番上手な髪結いさんのところへやって、文金島田に結わせ、着物も嫁入りの時の大振袖を着せ、丸帯も結わせて構図を作った。
タイトルの「序の舞」とは、舞はじめに序破急の序(緩やかで拍子に合わない)の部分がある舞のことと言う。能で演じられる舞のうち、ゆっくりしたテンポで、高貴な女性や精霊が舞うものとされる。
1939・64歳の時、第二次世界大戦が始まり、世情は騒然としていた筈だが、1940・昭和15年65歳の時、ニューヨーク万国博に「鼓の音」出品。松園は余技に謡曲、鼓をやっていたので、鼓の音を絵画化しようとした。戦時の騒音も知らぬげに、一心に鼓打つ 令嬢の 力のこもった赤みを帯びた指先から、鼓の音が伝わってくる。まさに、前記の序の舞の令嬢が、ここで鼓を打っているかのような錯覚に陥る。<絵から音>が聞こえるのは画家冥利に尽
きる。それにしても戦中時に制作上の不安とか動揺が、ほとんど 感じられないのが不思議である。

「鼓の音」
〇 1948 /昭和23年、文化勲章を受け、翌1949年、74歳の時、肺癌のため死去。従四位に叙せられる。
明治と言う 女性の地位の低く軽視されていた時代に、松園は、毅然とした態度、心意気を晩年まで持ち続けてきた。(キレイな)だけでなく、内面をしっかり見つめ、自分が感得した女性像を 画面に表現する制作上の苦心や苦労を、「楽しみ」と「面白い」に替えてずっと追及し続けたのだ。何事も面白くなければ長続きはしないものである。




コメント