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投稿 「雪と土と星の町」1 (2026/07) 小石 浩治
「暮らしの手帖」1964/昭和39年73号 編集:花森安治

記事の表紙を飾る雪の町の風景
本棚の整理・断捨離中の出来事ですが、昔の家庭雑誌「暮らしの手帖」に札幌や北大のことを書いた記事(1964年春季号)を見つけました。
4月6日、今年の北大の入学式が北広島・日ハム球場で行われたのを見て、新入生だけでなく私のような爺婆の心の残り火に細々とですが、小枝の一本も加えてもう一度燃え上らせてくれたような気がした。
この投稿によってOB・会員の何人かが共感してくれることを願っています。「手帖」の記事は昭和39年ですが、時代が変わったとはいえ現代の日本、北海道、東京の姿とあまり変わっていないような気がした。 (小石)
一世紀。丁度百年前。1864年。ヨーロッパではプロシャ・オーストリアとデンマークが戦っていた。ロンドンでは、いわゆる第一インターナショナル、国際労働者協会が生まれた。ロシアではトルストイの「戦争と平和」が出た。ジュネーブでは赤十字同盟ができた。アメリカでは、南軍と北軍が戦って四年目、ようやく南軍利あらず、シュリダン、アトランタ、ナッシュビルに敗れ、サバンナを占領された。民衆の詩人・フォスターが死んだ。
日本では蛤門の変に続いて、長州征伐の布令下って物情ますます騒然。英米仏蘭連合艦隊は来たって下関に砲門を開いた。
しかし・・・このあたりには、何事もなかった。広い川原には石ころがゴロゴロしていて、それが鈍い日差しを受けてひろがっていた。川原の中ほどに、いく筋にも分かれて水が流れていた。岸には、どろやなぎが生え、榛の木と楡の木の林が、ずっと山の方まで広がっていた。林の間を縫って、鶴が飛んでいた。しいんとしていた。秋になると雪が降り始め、何メートルにも積もって川が凍った。五月になると、雪が解け木は芽をふき、空が明るくうるんだ。やがて秋が来て、冬になり、春が来てまた秋が来た。人の姿は見えなかった。ごくたまに、アイヌが川づたいに歩いているのを見かけることがある。それくらいであった。もしも、そのアイヌのひとりに、川の名をたずねたら、彼はたぶん、こう答えただろう。<サッポロベツ> 乾上がった大きな河、というくらいの意味である。

明治の初め、開拓使が来るまで札幌はこんな原野だったのだろう (月寒附近)
それから、八回の冬と春が過ぎた。1873年。その<乾いた河>の西岸は、林が切り払われ、縦横に道らしいものがつけられ、所々に、草ぶき屋根の家が散らばって、ちらほら人の姿も見えた。(注:日本・太陽暦導入、徴兵令等)
十月。その荒涼とした台地に、忽然とアメリカ風の白い建物が建てられた。開拓使本庁である。面積614平方メートル、間口47メートル、二階建ての中央に八角の塔が立ち、その頂上、25メートルの高さに、旗が翻っていた。旗は、白地に星である。星は北極星を意味した。星は希望を表した。それは人間の<理想>であった。<乾いた河・サッポロ>の原野に鉛色の空が被さっていた。その痛烈骨をさす空と土をつらぬいて、いま、一点の理想を掲げるその旗は、ちぎれんばかりに湖風に鳴っていた。風に鳴るその音は、古い国、古いしきたりに別れ、ここに新しい土地、新しい理想の町の誕生を告げる、爽快なファンファーレだったのである。

大通り
はじめて札幌の町をつくるとき、この百メートル巾の通りを中央に置いたのである。ここに立つと、その明治初年の日本人にくらべて、その後の日本人が、いかにケチな根性しかもっていなかったかを、いやというほどおもいしらされるのである。開拓使は、この大通りの北側、写真でいえば右側を官庁街、南側を町家街にしたが、いまでも北側は官庁と銀行会社、南側は商店が多い。雪の多いときは、この大通りが雪捨て場になって何十メートルの高さの雪の丘ができたが、ここ数年雪が少ないので、名物の雪まつりの雪を、自衛隊のトラックで運んでくるありさまである。いずれにしても、この大通りは、いわ
ば札幌の顔。四季それぞれに懐かしいおもいでをもつ人も多いにちがいない。

豊平館
明治十四年に建てられた官営のホテルで、北一条西四丁目にあったが、いま中島公園に移されて、結婚式場などに使われている。やはり軒に星の印が見える。
明治のはじめ、この町ができてから、どれだけの人が失意にひしがれて去っていったことだろう。来てみれば、ここには、なんにもなかった。まるで素手で土を掘り、爪をはがして耕すようなものだった。そのころから今までつづいている店や家が数えるほどしかないのも、無理はないのである。それだけに、その数すくない歴史のどの一頁にも、すさまじい根性、たくましい<開拓者精神>がにじんでいるのである。

今井百貨店
明治五年、今井藤七が呉服店を開いたのがおこりで、土地の人は、今井さんとよんでいる。写真左手前は三越でこの方は、さんづけでは呼ばない。

中ウロコ呉服店
明治四年に質屋、八年に呉服店を開く。この倉庫は明治十三年に開拓使から金を借りて建てたいわゆる開拓庫。

福山醸造
明治二十四年、それまで廻船問屋だった福山甚三郎が展開して、みそ、しょう油を作ったのがはじめである。

古谷製菓
古谷勝が創設。<ウインターキヤラメル>を発売。北海道の寒さに対応するためミルクとバター多く使い、冬でも固くならないよう仕上げた。




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