大台ヶ原と松浦武四郎(2024.01) 長谷川 脩
私と松浦武四郎との巡り合わせは、2007年の秋大台ヶ原を訪ねた時に始まる。日本百名山の一つ大台ヶ原は、三重、奈良、和歌山の3県にまたがる吉野熊野国立公園の中心にある。標高1,300~1,695mの非火山性の隆起準平原で、年間雨量が4,500mmを越える本州最多雨地域で原生的な雰囲気に溢れている。
在職中は難しかったが、リタイア後、現地の大杉谷自然学校の企画に応募し参加した。参加者は10名前後で、大半は関西からで関東からは私一人だけだった。前日、三瀬谷に宿泊、夜来の篠付く雨はさすがに大台ヶ原だと思わせた。翌朝、幸い雨が上がり上々の天気だった。二人のスタッフの車に分乗して頂上の大台荘まで行き、周辺の東大台の地域を散策した。大台ヶ原の自然は、立ち枯れたトウヒの風景やブナの原生林など見どころ満載だった。
正木ヶ原の立ち枯れトウヒ群
「大蛇嵓(だいじゃぐら)」(嵓:大きな岩)は、高い断崖1,550m)の上に突き出ており、先端から覗き込むと高度感ある光景に思わず引き込まれそうになる。突端迄は行けず、その手前に鎖の仕切りが張られている。切れ込んだ深い谷の向こう側には紀伊半島を代表する大峰山脈の眺望が広がっている。大台ヶ原には大蛇が住むという言い伝えは、立ってみて、そう思わせるに十分な迫力に溢れていた。
大蛇嵓(後方は大峰山系の大パノラマ)
その日は山頂の大台荘に宿泊。入浴はできたがシャンプーは使用禁止。夕食後、翌日の西大台に向けて事前レクチャーの受講が必須条件になっていた。約30分の講義を受け西大台への立ち入り認定書をもらった。快晴の翌朝7:30に出発、地面には氷が張っていた。やがて早朝の神秘的な霧が晴れ、紅葉した広葉樹に緑の針葉樹が混じる美しい調和のとれた森が姿を現した。何度も全身で深呼吸したくなる爽やかな空気に満ちていた。
足元のふかふかの苔を踏まないように避けながら、小さな沢を渡ったところで、ガイドの説明に驚かされた。そこにあった石碑が「松浦武四郎の墓」だというのだ。彼が北海道の命名者であることは聞いていたが、こんな山奥深い場所にあるのは何故なのだろうと思った。しかし、この時は西大台の深い森を見ることと、ゴールの上北山河合のホテルまで辿り着けるかどうかが気になっていて、墓の詳しい事について質問はしなかった。長時間歩いて身体は疲れていた。けれども原生林に包まれた心地良さで、温泉宿の一夜を満ち足りた気持ちで過ごした。それから十年以上が過ぎた2018年、生誕200年、北海道命名150年を記念した「松浦武四郎展」が世田谷の静嘉堂文庫美術館で開かれた。この時、初めて彼の肖像写真を見た。
勾玉で自作した大首飾りを着けた松浦武四郎
撮影:明治15年(1882)
64歳の時
写真で身に着けている大首飾りは、金、銀、勾玉、管玉等240個もの玉を繋ぎ合わせて自作したもので、これらの玉は収集古物の代表格らしい。彼は「古物の大コレクター」でもあり、土、杉、銅、鉄、陶、瓦等で出来た古代から近代にいたる収集品が百数十点も展示されていた。彼は、当時の蝦夷地に6回も渡って調査をし、明治2年(1869)蝦夷地の新たな地名の選定を任された。北の人々・アイヌ民族の暮らす大地という意味の「北加伊(海)道」(アイヌは自分たちの土地を「加伊」と呼んでいた)の名を選んだことが紹介されていた。この展示会を機に松浦武四郎のことを詳しく知りたいと思うようになり、そして、大台ヶ原で見た墓との関連性も調べることになった。
武四郎は三重松阪の出身で、幼い頃から家の前の街道を行く多くの参拝客を見て育ち、旅への憧れを育んだと言われている。既に10代の頃から始められた旅の軌跡は広範囲で東・西日本の大半を既に歩いていた。当時、アヘン戦争やペルー来航があり、平戸滞在時に北方ロシア南下の脅威の話を聞き、方角を北に向けたらしい。彼は28歳から41歳まで、個人として3回、幕府役人(蝦夷開拓御用掛)として3回の計6回、蝦夷、千島、樺太に渡り詳細な調査を行った。彼の身長は150㎝弱で、小柄な身体ながら驚くべき行動力である。彼は歩くために、疲れにくい古武術「神足歩行術」というものを習得していたそうだ。
* 第1,2,4,6回調査時の踏破行路
地元松阪から本州を縦断し北海道に渡り、アイヌの力を借り、多い時には60~70㎞/日、記録を取りながら徒歩で踏破した。このとてつもない行動力は総計約2万km以上を歩いたことになる。なんと頑健な身体だろう。探険者であり報告者であった彼は、旅の中で見た数々の重要な事柄を全て詳細に記録し、内地に戻り整理し、また出かけて行き、歩き見ては記録した。人並外れた行動力、旺盛な好奇心、几帳面で何でもこなせる器用さ、誰とでも仲良くなれる性格などが、151冊もの記録と詳細な地図にまとめられた。その中には9800に及ぶアイヌ語の地名が残されている。そこに、墨で描かれている絵の上手なことには感心させられる。生き生きと捉えられているアイヌたちの姿は、出色のルポルタージュとして際立っている。
蝦夷地調査時に使った野帳
武四郎とアイヌと動物
(知床日誌)
この踏破行の後、アイヌに強いる松前藩のひどい仕打ち、和人の商人によるアイヌへの不平等な扱い、そして明治政府のアイヌ政策への不満等で嫌気がさし、幕府の仕事・開拓使からすっぱり身を引いてしまう。彼のまとめた調査報告書には「アイヌ民族の命と文化を救うべきである」と随所で訴えているが聞き入れられはしなかった。そして、彼は2度と北海道に足を踏み入れることはなかった。その後も旅は続けていたが、最晩年を見据えて、彼は三つの事を周到に計画し成し遂げている。
その一:生前に自分の涅槃図を描かせた釈迦が入滅した時の涅槃図がある。涅槃とは煩悩が一切なくなり穏やかな心になることを指すもので、この涅槃は解脱とも悟りの境地とも言われる。釈迦が説いた「煩悩が消滅し悟りを完成させた境地=涅槃」は釈迦の教えの到達点であり、この状態に到った時を自分の身になぞらえて、画家河村暁斎に描かせている。全体の構図は釈迦のものと同じだが、登場人物、収集品、動物等は彼が関わったものに置き換えられている。
* 生前に描かせた武四郎の涅槃図(全体)
* 涅槃図中央部の大首飾りを着けた武四郎(部分)
長い旅の一生を終え、安らかな境地に到達した自分の生涯を振り返っている表情である。
その二:「一畳敷の屋敷」を作った
当時の平均寿命は現在より短く、「古来稀なり」の古希(70歳)が長寿の年齢だった。武四郎が古希を迎えるに当たり、人生最後の時を過ごす空間として設計したのがこの小さな書斎だった。彼は旅先で知り合った友人・知人に手紙を書き、数年をかけて各地の由緒ある寺社・旧家の廃材や断片材の勧進(寄進の依頼)をした。その勧進した材を建築・内装部材として用いて、明治19年(1886)、神田五軒町の自邸に一畳敷を建立する。その名のとおり、たった一枚の畳に板縁を廻らせ神棚、書棚と床の間をしつらえた空間は89もの歴史ある木片で建てられた。その木片は全て「木片勧進」にその由来の記録が残っており、大宰府天満宮、熊本城、出雲大社、厳島神社、伊勢神宮、法隆寺、興福寺、宇治平等院、鶴岡八幡宮、伊豆三島神社等の名前が見られる。かねて想い描いていた「一畳敷の屋敷」に必要な材料が揃い建設した。
彼は、長い旅の人生や多くの人との交流を振り返る場所として「起きて半畳、寝て一畳」の個性溢れる部屋を完成させた。遺言には、死後「一畳敷の屋敷」の建材で荼毘に付し、遺骨は大台ヶ原に埋めるようにと記載されていたが、そのどちらも遺言どおりにはならなかった。墓は都の染井霊園にあり、「一畳敷の屋敷」は、その後変転を重ね、現在は国際基督教大学(ICU)構内の「泰山荘光風居(たいざん:高い山・富士山が該当)(こうふうきょ:気高い人の住まいの意)」の一つとして国の有形登録文化財に指定されており、大学の文化祭に一般公開されている。
2023年10月ICU泰山荘特別公開ツアーに応募して当選し見学することができた。武蔵野の面影が色濃く残る広々とした構内を約15分歩いて茅葺屋根の下に「泰山荘」と書かれた看板がある表門に着いた。学生の文化団体「泰山荘プロジェクト」に所属する学生が六つの建物(表門、待合、書院、高風居、蔵、車庫)を案内、説明をしてくれた。高風居は、数十段の石畳み階段と坂道を下りたところにあり、周りは高い樹々に覆われ、下には熊笹が一面に拡がっていた。
武四郎の遺言どおりにはならず後世に残った「一畳敷」は、彼の死から20年後、紀州徳川家15代当主徳川頼倫が購入し、麻布飯倉に移築され「高風居」という茶室とともに保存された。その後、実業家山田敬亮に譲渡され三鷹の「泰山荘」に移る。次に中島飛行機会社が買い取った。幸い関東大震災や空襲にも被害を受けず、戦後、ICUの開校(1950)とともに大学の所有となった。初め大学はこの「一畳敷」の価値に気づくことはなく、積極的に保全に動き出すのは昭和54年になってからである。これらの経緯を知ると「一畳敷」が現在見ることが出来るのは奇跡に近い。
高風居 昭和11年(1936)移築(ICU販売の“はがき”から)
見学中は施設に触れること、中に入ること、撮影することは禁止されていた。上の写真で一畳敷は右奥の部分が該当する。左側は倒壊を避ける為、増築された茶室である。開口部には全て障子があり、その外側に板戸の開きと引戸の雨戸がある。雨模様の午後で、内部はかなり暗く懐中電灯で示して説明してくれた。「木片勧進」にかかれていた思い出の詰まった材料が良く見えた。
約40分の泰山荘の見学後、希望者は湯浅八郎(初代学長)記念館に案内された。そこには一畳敷のレプリカがあり、ビデオモニターで一畳敷の来歴説明が映し出されていた。レプリカは精巧に本物そっくりに作られていて、靴を脱いで中に入ることができた。それまで分からなかった細部を間近に見られ、はっきり分かった。同じものは、ICUの復元監修のもと生誕地三重県松阪市武四郎記念館にも原寸模型が制作され、常時公開されている。
畳一畳ではあるが周囲に15cmの畳寄せの板があり、それ程狭くは感じない。畳の上に寝転んで見上げると空間はより一層拡がりを感じる。木片は、全国の知友に依頼し8年もの準備を経て集められた。類例を見ない一畳だけの空間は、武四郎にとって数々の記憶と思い出が詰まっている。だが、武四郎がこの空間で過ごした期間は完成から僅か1年余りしかなかった。しかし、それは、武四郎が歩んで来た足跡と誰もなし得なかった業績の全てが凝縮された幸せな時間だったに違いない。その同じ場所に座ってみた。そして、武四郎がここで寝起きをしていた時のことを想像してみた。武四郎が感じたであろう思いと同じような感覚が自分にも沸き上がってきた。
帰り際、目に留まった小さなショーケースの中に「木片勧進」を見つけた。縦10数cm、横10cm程度の小さな冊子で、明治20年(1887)制作の実物だとのこと。これが例の木版刷りなのかと見つめた。一畳敷の材料を語るうえで欠かせない刊行物がこんなにも小さいことに再び驚かされた。
その三:大台ヶ原に登頂した
武四郎は68歳の時、当時まだ道も無く、山の様子も良く分かっていなかった大台ヶ原(当時は大台山と呼ばれていた)に初めて足を踏み入れた。その後、69歳、死の前年の70歳と計3回大台ヶ原に登っている。深山幽谷の趣があるこの地を、終焉の地として考えるようになったのは、次のような理由からだと思われる。彼は松阪で生まれ、その後、諸国を旅する間に親族が亡くなり天涯孤独の身となった。年老いた自分を振り返り、高野山、熊野三社、伊勢神宮という三方を霊地で囲まれた大台ヶ原は、特別な場所として彼の目に映ったに違いない。特に未踏の地であった西大台は、清流に育まれた苔や鬱蒼とした樹木に覆われ、心和むところとして強く惹かれたことだろう。大台ヶ原に従者2人と向かう武四郎の様子が、涅槃図を描いた河鍋暁斎の手で残されている。
明治21年(1888)、東京神田五軒町の自宅で脳溢血により死去。享年71歳。翌年、西大台に分骨されて墓碑が建立され念願の「帰還」が叶った。
自然や生物を敬うアイヌの優れた文化を理解し、偏見を持たずに広い心で対等に接することで武四郎の右に出る者はいなかった。ドナルド・キーンは「アイヌ民族の権利の説得力ある擁護者としての姿が、文中から力強く立ち現れてくる」と書いている。真実を見極めて時代を切り開いてきたことで、松浦武四郎は今なお、現代人にも大切な“こころ”を伝えているように思われる。
(*印:掲載図、写真はICU泰山荘デジタルコンテンツによる)
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