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追悼 八代亜紀         (2024.01) 長谷川 脩


「雨の慕情」「舟歌」で知られる歌手の八代亜紀さんが昨年12月30日に73歳で死去した。病気療養中だったとのこと。

 この訃報に接して、二つのドラマの場面が思い出された。どちらも倉本聰の脚本による北海道を舞台にしたもので、一つはテレビで毎週金曜夜放映された「北の国から」、もう一つは降旗康男監督の映画「駅 STATION」である。

 「北の国から」は1981年10月から1982年3月まで毎週放送された後、10年単位で子供の成長を追うスペシャル版8編が2002年まで放送される人気番組だった。妻と不和になった主人公の黒板五郎が純と蛍の子供二人を連れて東京から故郷の北海道・富良野に戻り、廃屋を補修し電気も水道もない人里離れた山中で暮らす一家の姿を描く。我が家の子供達は、録画して欠かさず観ていた。私は時間の許す時に覗く程度だったが、第8話は強く印象に残っている。

 大晦日、仲の良い正吉にテレビの紅白歌合戦を観に来い、と誘われ、純と蛍は父の承諾を得て彼の家に出かける。部屋に入ろうとして二人は立ちすくむ。ガラス戸越しの部屋では正吉と出稼ぎ先から戻った母親が、笑い声をあげながらふざけていた。テレビでは八代亜紀の歌う“雨々ふれふれもっとふれ 私のいい人つれて来い”が流れていた。



         

 兄妹はいたたまれなくなり家に帰る。あてが外れ落ち込む二人を父親は富良野の丘に連れ出す。町の明かりを見ながら、あの家々の大半では紅白を観ているだろうと言う。けれど、父親は紅白よりも遥かに広い空の美しさを悟らせるように、大声で「さようなら!1980年!」と叫んでみせる。そして、純と蛍も加わり大声で「さようなら!」を叫ぶのである。

「雨の慕情」で印象的なパートの“雨々ふれふれ もっとふれ”を歌い始める際、手のひらを天に向ける振付けは、八代自身の考案だったとのこと。他の歌の場合と同様、自然に出てきたものらしい。正吉が紅白に誘う時も、純に手振りよろしくまねをしてみせる。この歌が様々な番組で披露され、この振付けが子供たちにもウケ、まねをされ、世代を超えるヒットに繋がったようだ。  

 一方「駅 STATION」は、なぜ英語と併記なのか分からなかった。脚本は「駅舎」という題だった。しかし、全国版として出すには地味だとの意見があり、「男は黙ってサッポロビール」のコピーライターの作「駅 STATION」になったとのこと。

銭函、枝幸(えさし:北見枝幸で、江差と区別されている)、留萌、雄冬(おふゆ)、増毛等の地が出てくる。桐子(倍賞千恵子)が営む居酒屋「桐子」は増毛の駅前にある。増毛から故郷の雄冬への船が欠航し、所在ない警察官の英次(高倉健)は、暮れの三十日にまだ赤提灯の灯るこの小さな居酒屋に入った。二人の出会いの場面でテレビから「舟歌」が流れてくる。桐子はつぶやく「この歌、好きなの、私」。

 “お酒はぬるめの燗がいい

 肴はあぶったイカでいい”

 酒を交わしながらの二人の長回しのシーン、この八代亜紀の歌「舟唄」をバックに、情感溢れる二人の会話が進んでいく。翌日、大晦日の夜にも居酒屋「桐子」で呑むシーンが出てくる。実際に紅白歌合戦をテレビで流しながら、テストなし、セリフは全てアドリブで撮影されたらしい。この「舟歌」と共に無くてはならない名場面が作られた。 


今は廃線になった冬の留萌-増毛間の沿線風景


 「舟歌」は八代の代表曲の一つになったが、1979年の発表当時のものは八代の声にあわせて曲調も速めだった。2000年以降、八代の年齢の変化に併せて、当時のものより音程をひとつ低く(変イ短調)、曲調も4分20秒ほどのスローテンポで再録されたものとなっている。

 この歌の作曲家浜圭介(77歳)が語っている。「作品を渡したら、淡々と真正面から素直に、自分の人生のように歌った。彼女は自分の感性の中で作品を歌いこなしていた。」

そして、この「雨の慕情」「舟歌」両方を作詞した阿久悠は既に2007年70歳で亡くなっているが、数々の作詞と共に意味深い言葉も残している。

 その一つ「感動する話は長い短いではない。3分の歌も2時間の映画も感動の密度は同じである。」

 八代亜紀は若い頃から絵画にも親しみ、世界最古の美術展である仏の「ル・サロン」で5年連続入選して永久会員になっていた。新年早々、また一人の才能ある人物と惜別することになった。

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