追悼
- 東京黒百合会
- 7月5日
- 読了時間: 3分
首藤義明さんを偲ぶ
福林紀之
首藤さんとはひょんなことで知り合い(ヨット部の仲間が主宰するデッサン会)、その縁で黒百合会へ勧誘された。デッサンで疲れた後は、浦安駅前の焼き鳥屋であれやこれやの話になる。首藤さんは古武士のような風貌で、ゆっくりとお酒を口に運びながら、口数こそ少ないが、大分の郷土愛、少年野球の面白さをとつとつと語る。話は明瞭である。
首藤さんの絵は個性豊かである。裸婦クロッキーではスケッチブックの1ページに何人ものポーズを描く。たくさんのポーズを描くとそれらが全体で調和して一つの世界を構成する。

首藤さんの絵と言えばあのエメラルドグリーンであろう。彼の好きな色だったのでしょう。空にも、山にもビルにもあのグリーンが美しく力強く彩色されていた。絵を描くことを何よりも楽しんでいた方である。

ちょっぴり古風で質実剛健、個性豊かな先輩がまた一人旅立った。少し先を急いだようだ。なんとも寂しい限りである。
合掌。
首藤義明さんの想い出 長谷川 脩
首藤さんと東京黒百合会で再会した時、まさか同じ町田市に、しかも、目と鼻の先とでも言える近くに住んでいることを知った時は本当にびっくりした。黒百合会では話したことはほとんどなかったが、この広い東京の同じ町田市で金井町と野津田町はとなりあっている。
彼は学生時代、馬術部にいたので、鏑木さんが東京黒百合会に入るに当たり農学部出身の息子さんが同じ馬術部にいた縁で、私と一緒に彼に保証人になってもらった。その時の彼から届いたメールが残っている。
「大変良いニュースだと思います。やはりよく描き、展覧会にも出品している方が欲しいと感じていました。現在会員でも10人くらいは不出品が現状です。たのしみにしております。推薦人引き受けます。首藤義明」
私が東京黒百合会に入会した頃、彼は既に入会45年も経過していて秋の本展の幹事をして活躍していた。その頃は今と違って会員数も50名を超え、会場も銀座資生堂ビルを使用していた華やかな時代だったようだ。
ある時、東京黒百合展の会場で「肩が痛い、肩が痛い」としきりに肩を回しているので、聞いてみると、近所の年寄り仲間とソフトボールを楽しんでいることを話してくれた。そして「年を取っている奴ほど辞めると言わんのじゃ!」と笑っていた。
その彼が出展をしなくなり、体調が優れないのかと思っていたら、ある時電話がかかって来て、九州に帰るので今後は出展できなくなるとの話。ただし、会員ではいたいので会費だけ払うのでも構わないか、と聞いてきた。今後も黒百合会とつながっていたいという気持ちだったのだろう。
暫くして九州湯布院の連絡先に電話を入れたところ、奥さんを亡くしてこの施設に入る決断に至ったことを話してくれた。
そんな深い悲しみがあったのかと初めてその事情を知った。故郷に戻り、懐かしい風景に抱かれ、穏やかな日々を過ごして、これからをゆっくり送って欲しいと思った。
その生活を何年も過ごさないうちに、帰らぬ人になってしまった。あまりにも早い訃報だった。
しかし、彼はエネルギーの赴くままに人生を駆け抜けていったように感じる。絵画、馬、旅行、スポーツを謳歌して故郷に帰っていったのだ。
首藤さん、どうか安らかに。
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