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ゴッホ展

  • 執筆者の写真: 東京黒百合会
    東京黒百合会
  • 2020年2月29日
  • 読了時間: 3分

    記 小石浩治

(2019/10・11?2020/1・13 上野の森美術館)

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853――1890)


Ⅰ. ゴッホが画家として活動したのは1881-1890までの僅か10年間。美術教育を修了して

いないゴッホは、オランダ時代パリ時代を通して同時代の様々な画家たちと交流を重ねる中で、彼らからの影響を強く受けて自らの作風を大きく変化させていく。二つの出会いに注目。

 一つは、27歳で画家として生きる決意をしたゴッホをまず導いたのがハーグ派である。

農村生活を静謐な筆致で描いた彼等から、ゴッホは画家としての基礎を学ぶ。

※ ハーグ派=1870―1900年頃にかけ、オランダ・ハーグを中心に活動した画家達。

屋外での自然観察、田園風景(風車、運河等)、農民の生活などを描いた。

 二つに、その後、ゴッホはパリに出て印象派と出会い、躍動する色彩のとりことなった。

※ 弟・テオのこと。(パリの画商・グービル商会に勤務。印象派の画家たちを数多く

世に送り出す。生涯、ゴッホを経済的、精神的に支援した。)

 ゴッホもまたモネやルノワールらの印象派絵画に触れ、画家達と交流を持つ。

 本展の注目点は、ゴッホの画業における驚くべき進化の早さである。弟・テオの献身的な

サポートを得て、10年間に約850点もの油彩画を制作したゴッホだが、画家として身を

立てる決意した頃は、一介の日曜画家に過ぎなかったことである。本展は、その変化の過程を、最初から晩年までを時系列的に作品を並べたものである。

※ 本展はハーグ派の重要なコレクションを所蔵するオランダ・ハーグ美術館長の監修のもと、イスラエル、モナコ公国等、10ヶ国・地域から借用することが出来た。

(上記;上野の森美術館「ゴッホ展」チラシより)


我が国初公開の作品「パリの屋根」(部分)1886年・アイルランドナショナルギャラリー


Ⅱ. ゴッホ展の「チラシ」――ゴッホ・波乱の生涯――を凝縮!

 年代順に簡潔に解説した[図]を見るとゴッホの生涯が解る、まさにポケット辞典である。

[START] 1853年オランダで牧師の家に生まれる。1857年、弟テオが生まれる。

16歳、伯父の経営する画廊に勤務 1873年ロンドン支店に勤務 21歳・失恋, 勤務不良。

23歳・画廊を解雇さる。?1877年アムステルダム大学の神学部を目指すも挫折。

1878年25歳、ベルギーで伝道師になろうとするが不採用になる。1878年ベルギーの

炭鉱町へ行き、伝道活動を行う 26歳・過剰な伝道活動を教会は快く思わず、活動禁止さる。

 1880年27歳、画家になることを決意する 1881年28歳・オランダに戻る。従妹に失恋。

 1881年ハーグに移り親戚の画家に絵画を習う 1883年ニューネンの両親のもとに戻る。

 1885年32歳、労働者の生活を描く 1886年33歳・パリのテオのもとへ、印象派絵画に

触れ、画家達とも交流を持つ。“タンギー爺さん”の画材店などで作品を展示する。

 1887年34歳、印象派の影響を受け作風が変わり始める。浮世絵の収集、ゴーギャンを知る。

 1888年35歳、2月パリの生活に疲れ、南仏アルルに向かう。9月、「黄色い家」に住む。

浮世絵の影響を受け鮮やかな色彩の作品を描く。10月、ゴーギャンと共に暮らし始める。

12月、ゴーギャンと口論の末、“耳切事件”を起こす。ゴーギャンはパリに戻る。

 1889 年36歳、自ら精神療養院に入院する。治療の一環として絵を描くことを許された。

 1890年37歳、5月、医師を頼ってパリ近郊オーベル・シュル・オワーズへ行く。テオの重荷になることを悩む。7月、ピストル自殺を図る。テオに見守られながら亡くなる。 



 上野の森美術館チラシ


「ジャガイモを食べる人々」1885年オランダ・ニューネン (リトグラフ)


「糸杉」1889年 ・南仏・サン・レミ


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