top of page
執筆者の写真東京黒百合会

「ぎごちない」を芸術にした画家

小石浩治 記


――「ぎごちない」を芸術にした画家――与謝蕪村  (3/13~5/9 於:府中市美術館)

松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠与謝野蕪村展が、府中市美術館で開催された。

蕪村の俳句が主題ではなく、蕪村の俳画・画業を顧みる展覧会である。

   

Ⅰ . 蕪村(1716~1784)は江戸時代中期に活躍した俳人・画家で、摂津国(現・大阪府津島区)に 生まれ江戸で俳諧を学んだ。松尾芭蕉の死後、衰退した蕉風俳諧を一変、写実的で抒情性のある

絵画的な作風で当時の俳壇をリードしたことから、「江戸俳諧の中興の祖」ともよばれている。

更に俳諧発句と独学で習得した絵画を融合し、俳画と言う独自の芸術を確立した。

蕪村は、20歳で故郷を離れ、早野巴人(芭蕉の孫弟子)と言う俳諧師に弟子入りし、自然と芭蕉を尊敬するようになる。同時期に詩・書・画に励み、特に画は独学であった。     

 1742年巴人が亡くなると、蕪村は旅に出る。凡そ10年もの放浪の中で、東北へ芭蕉の足跡を辿りに行ったり、宇都宮に行ったりして放浪の末、丹後(京都府)の与謝に家を構えた。当時、江戸時代の俳句は芭蕉(1644~1694)の名と共に蕉風俳句が広がるが、時が経つにつれ廃れていく。芭蕉を愛してやまなかった蕪村は俳諧復興の志を同じくする同志と共に句会を催し、次々と名句を詠んでいく。それは「蕉風回帰」と言う蕪村の生涯の仕事になった。


与謝蕪村「奥の細道画巻」その後45歳で結婚、京で活動するが、画業でも名を知られるようになり1770年には俳諧の師であった巴人の流派を継ぐ。  

1774年には宇都宮で俳号「蕪村」を名乗り俳諧宗匠へ向け歩み始める。この時期に画・俳両道の基礎を固めていく。

蕪村が「文人」と言われるのは、俳諧と書画(水墨画、文人画=南画)に日本的解釈を施し、流派確立の立役者となったからだろう。

蕪村が亡くなった後、百数十年間は忘れられた存在だったが、蕪村にスポットライトを当てたのは明治期の正岡子規だった。子規は短歌や俳句の方法論として、写生説を唱えていた。

対象をありのままに写し取った短歌や俳句が素晴らしいとする説の代表例が蕪村の俳句と言うわけである。その例に---―  芭蕉は「五月雨を集めて早し最上川」蕪村は「五月雨や大河を前に家二軒」五月雨は、陰暦五月は太陽暦6月頃、芭蕉は最上川を行く船から見たが、蕪村は対岸から少し上目線で、濁流の大河を前に家が二軒、不安げに並んでいる情景を見た。「大河」と固有名詞を使わずに個々の自由な想像に任せる蕪村の写実・絵画的作風に正岡子規は感応したのだ。


Ⅱ.  <「文人」は教養と芸術的感性を持ち、大衆の思考に惑わされず、高潔な心を大事にして、文芸や書画を楽しむ人たちのことをいう。いわゆる「うまい絵」は技術で大衆を惹きつけるが、文人はその逆を理想とする。そこで、上手く見せようという考えを捨て、ただ純粋に絵筆をとり、心の高みを表現した>。 <蕪村は俳人としてよく知られているが人気の画家でもあった>・・・と、府中市美術館学芸員・金子信久氏は解説する。(「江戸絵画」4/10付日経新聞)俳人にして画家、「俳句」と「絵」を融合させた「俳画」の祖は蕪村と言われる由縁である。


蕪村の俳画・「麦打ち」

蕪村の図・「麦打ち」【「涼しさに麦を月夜の卯兵衛哉」・俳句】は今回の蕪村展のポスターになった。自画賛(俳画の前書き)は、蕪村が陸奥の国を旅していた時の思い出のことを綴る。

<旅先でたどり着いた地にて、夜半に何やら物音がするので行ってみると、古い寺の庭で臼を突く老人が居た。

何しているのかと尋ねると暑い日中を避けてこうして涼しい夜に作業をしているのだと言う。老人の名前は卯兵衛(うへえ)と言う。>「卯」は兎のこと。  

この兎を「鳥獣戯画」の”ウサギ”と比べると蕪村の兎は、いかにも“ゆるーい”“ぎごちない”絵である。詳細不明だが、画家になったのは、京都に移住して寺院の古典絵画に触れて学び、知識を得たことが大きいのではないかと言われる。

蕪村は芭蕉を慕い、僧形に変えて東北地方を周遊、絵を宿代の代わりに置いて旅をしたと伝えられる。話は脱線するが、特記したいのは、1773年頃、江戸時代中期の絵師・呉春(1752--1811)が蕪村の内弟子として入門したことだ。呉春は俳諧や南画(文人画)を学んだおかげで、蕪村の連句選集や俳書に自ら挿画を入れていた。1784年、京都に病む師・蕪村が68歳で亡くなるまで看病を尽くす。 蕪村の(ぎごちない絵)は見る者の心を和ませる効果があり、呉春はその画法を受け継ぎながら、よりリアルに、緊張度の高い南画・俳画の作風に変えていったのではないかと思う。

「鳥獣戯画図」部分

蕪村の「鳶鴉図」(部分)は呉春の「雪中群禽図屏風」。

雪景と鳥の主題は蕪村の作品にしばしば見られるとろだが、右図は明らかに師・蕪村の感覚を学んだものだろう。<・・雪の降りやんだひとときの静寂を破るかのように、二羽の小禽が木の間から飛び立つ。雪景の抒情的描写の中にも呉春の鋭い自然観照の目が加えられ、静と動との画題を深くたたえている。蕪村の死後、円山応挙達の仲間(写生画派)に入り、蕪村様式から離れようとした過渡期の呉春の傑作である。>

―――「日本美術7」・鈴木進編“応挙と呉春”・至文堂刊より 本展は、国宝(「夜色楼台図」)や重要文化財(「富岳列松図」)となった作品を含め、約100点(風景、人物、植物等)が展示され、“絵描きの蕪村”を知るユニークな展覧会となった。

蕪村「鳶鴉図」部分

    

呉春「雪中群禽図屏風」部分


          

呉春作「与謝蕪村」












閲覧数:145回0件のコメント

最新記事

すべて表示

投稿

投稿

Comments


bottom of page