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執筆者の写真東京黒百合会

おかえり「美しき明治」

(2019/9月14日~12月1日―府中市美術館)

―――府中市制施行65周年記念展 ――――    小石浩治 

   

Ⅰ. “おかえり・美しき明治”と題して花摘む女性のモノクロ写真が新聞広告欄に載っていた。この“姉さん被り”の娘に会いたくて府中美術館を訪ねた。

観覧順路表示に入口横に飾る写真を見よとある。そこは写真家・塚原琢哉氏の農村風景・自然と暮らす人々を取材したモノクロの記録写真が数点並び、隣に笠木治郎吉の「花を摘む娘」(F10相当・水彩)が微笑で迎えてくれた。


笠木治郎吉「花を摘む娘」水彩

作者・笠木治郎吉(1870―1920?)は石川に生まれる。横浜に出て、月岡芳年門下の山村祥柳に師事。祥柳が五姓田義松に師事したことから洋風表現を身につけたとされる。横浜に

住んで外国人向けに作品を描いていた。記録写真(60年前)コーナーに誘導したのは、鍬をもった老農夫、幼子を膝に抱く父親、暖炉の傍に座る祖母と孫娘など、日本の自然の美しさとマッチして、どの顔にも勤勉、誠実、慈愛の眼差しがあった。笠木の作品数点にも「美しい微笑み」がしっかり描かれている。未だ写真が現在ほど普及していない時代、

これこそが日本の原風景であると明示したかったのだ。

笠木の作品は海外で発見され、他の作家の作品も近年少しづつ里帰りが進んできたそうである。               

展覧会チラシの記事は――明治初年、優れた英国人が日本にやって来た。未知の国日本の山河に花々を求め、つつましい日本人・明治の人々の暮らしや美しい風景に心を動かされ、優れた紀行文や絵画を残した。日本に魅了された画家のひとりチャールズ・ワーグマンは、高橋由一らに西洋技法を教え、画家で園芸家のアルフレッド・パーソンズは、日本の花々を訪ね歩いて展覧会を開催して日本の画家たちに大きな影響を及ぼした。これらの動きは、1910年頃の水彩画ブームへとつながり、日本人青年画家たちが風景描写に詩情を加えた独自の水彩画「みずえ」が、来日した人々の手土産として本国に持ち帰られ、大切に保管された。 近年、その一部が里帰りしてくるようになり、先述の画家・笠木治郎吉等、これまでの日本水彩画史上、あまり注目されなかった画家、海外に渡った幻の画家の作品を含む

約300点を、富士、日光、人物、生活などをテーマに展示。

現代に150年前の「美しい明治へ」日本人画家、外国人画家と一緒にご案内しましょう――という内容である。

会場入口の上の絵(花摘む娘)は水彩画であることにも驚く。



「花売り娘」も笠木治郎吉の水彩画なのだ。解説によると、一見、油彩画と思うほど細密に描かれているが、日本画に使われる膠(にかわ)を水彩絵の具に混ぜて描いたものだと言う。

グラデーションの表現には、膠のほかにアラビアゴムを混ぜると筆の延びが良くなることが判り実践したと考えられる。

 笠木治郎吉は独自の工夫を凝らし、油彩画の輝き、水彩画の透明感を作り出し、「日本の暮らしの美」を海外に伝えたのだ。

Ⅱ. 1876年工部美術学校にイタリア人フォンタネージが招聘され、1878 年に入れ替わりに

アメリカ人フェノロサが来日するが、当時、廃仏毀釈(明治期の神仏分離政策による仏像等の破壊)等、行き過ぎた西洋文化に反対し、岡倉天心とともに日本美術の再評価を訴えると、それが国粋主義的傾向を助長し、西洋画排斥運動にまで発展した。1889年(明治22)に

岡倉天心を初代校長に東京美術学校が開校しても西洋画科はなかった。西洋画科の設置は

1896年(明治29)、その間は「洋画冬の時代」であった。この度はまさにこの時期の水彩・油彩画家、特に水彩画家を中心の展覧会である。初めて知る画家が多かったが、特に興味をもった画家の作品を、以下に挙げてみたい。   

1)チャールズ・ワーグマン

 1861年に来日した英国の新聞記者ワーグマンは、幕末から明治前期に横浜で活躍した。

写真が技術的に安定していなかった当時、彼の鉛筆や水彩による速写は極めて有効だったと思われる。横浜に根を下ろして五姓田義松、高橋由一らに洋画を教えた。日本女性と結婚。

「西洋紳士スケッチの図」油彩・1870年頃作



2)アルフレッド・パーソンズ

 1892年に来日したパーソンズは、日本の植物と風景を組み合わせた水彩画を多数描いた。       

「鎌倉の茶店」水彩・1892年頃作



3)大下藤次郎

1898(明治31)原田直次郎の指導を受け、パリ万博に水彩画を出品。同年明治美術協会会員となる。

1905年水彩専門雑誌「みずゑ」を創刊、翌年水彩画講習所(日本水彩画会研究所)を開設。

「蓮池」水彩


 

4)浅井 忠

 1876年工部美術学校に入学、フォンタネージに師事。1898 年東京美術学校教授に就任。

 翌年、フランスに留学、和田栄作とグレーで制作に励んだ。1906年関西美術院初代院長。

「干網」水彩・1906年頃作

 


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