-----続かたつむり旅日記------ 長谷部 司
Ⅰ. 二〇一一年四月九日(土) ローマ/フィレンツェ
午後十二時五分発の特急でフィレンツェに向かう。土曜日のせいか車内は満席である。隣にすわったフランス人の女子学生はこれからマルセーユに帰るところだという。窓の外にはすでに見馴れたイタリアの風景が快適に流れている。 いまや地中海クルーズなどという物見遊山が終わって、これからはいよいよ本番の単独登山に挑戦するような気分である。フィレンツェをベースキャンプとして、予定した六ヶ所を電車やバスを乗り継いで十日間で廻って来ようという我ながら欲張った計画に加えて、今回はピサ、パドーヴァ、ラヴェンナ、アレッツォ、アッシジ、シエナなど、みんな初めて訪ねる場所ばかり。幹線ルートを外れた交通の不便や土地不案内や言葉の問題を考えると、どんな不測の事態に遭遇して立ち往生といったことにも成りかねない。喜寿を過ぎた健康上の不安もある。といった次第で本人としては少々覚悟の旅立ちなのである。 専門家でも研究者でもないのに、なにもそこまでして出掛けなくてもいいではないかと言われればその通りかもしれない。もともとイタリアの美術に特に強い関心を持っていたわけでもない。素人絵描としてはフランスの印象派以降の方が遙かに馴染みがある。それが数年前に友人に誘われて一般人向けのイタリア美術史講座を聴講したのがきっかけで、ビザンチンのモザイク画やジオットやピエロ・デッラ・フランチェスカの宗教画に強く惹かれてしまったのである。生憎これらの実物は現地でしか見られない。
それが今回の旅の一念発起の理由である。それに加えてピサの斜塔、シエナのカンポ広場を一度は見たかったし、ウフィッツィ美術館も見納めておきたかった。
午後二時過ぎにフィレンツェに到着、駅から眼と鼻の先にあるホテル・ボッカチオにチェック・イン。中世の大詩人の名前とは縁遠い旅行者向の小さなホテルである。荷物を部屋に置くなり明日からの鉄道の切符を買いに駅に戻る。 すでに日が傾きかけていたが、一か所尋ねてみたいところがあった。実は十数年前パリに出張の途中ミラノの運河沿いの骨董市を覗いた際、金泥で彩色した一対の木彫りの天使像を衝動買いしてしまい、それぞれ体長が六十センチもある大きさだったのでスーツケースを空にして長途日本まで持ち帰ったことがある。その時出店で貰った名刺に本店がフィレンツェとあったので機会があれば訪ねてみたいと思っていたのである。しかしさんざん道に迷ったあげく辿り着いた番地にその本店なるものは影も形もなく、近くの人によればそんな店の名前は今迄聞いたこともないというではないか。十九世紀のフィレンツェ工房製という触れ込みも今となっては眉唾ものである。アメリカ人の日本での笑い話をこの馬鹿な日本人がイタリアで演じていたことをわざわざ十数年後にのこのこ確かめに来たことになる。しかし慰めの一つはパリでこの天使達を見せたフランス人から、かくも聖なるものを土産として買い求める日本人の不謹慎を咎められたこと、もっと大きな慰めは当の天使達が我が家のリビングルームで家族に愛されていることである。 しかし今は疲れはてて、大きなピザとビールをやけ食いやけ飲みしてホテルに戻る。日が落ちて暗い石壁が続く裏通りには中世の匂いが漂っていた。(続く)
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