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執筆者の写真東京黒百合会

イタリア美術巡礼

|- かたつむり旅日記(6) - 長谷部 司


四月十四日 (木)サンセポルクロ

 今日はピエロの生地であり終焉の地でもあるサンセポルクロへ向かう。バスは春のゆるやかな丘陵地帯を縫って北へ進む。ここの市立美術館にある「キリスト復活」を見るためである。

「復活のキリスト」部分


 この作品はフレスコとテンペラの併用なので フラスコだけより透明感と微妙な陰影がある。しかし一番印象的なのは復活のキリストの毅然とした立ち姿と見開いてはいるが遠くを見るでもないその眼差しである。瞑想的というには目を見開き過ぎているように思えるし、凝視と言うには視線 が遠くに放たれている。精妙に作られた木偶の目といえないこともない。こうした宗教画における ピエロの表現が彼の信仰心とどのように関わって いるのかつきとめたかったのであるが。 アレッツォの街に戻ってからもう一つ重要なピエロのフレスコ画「マグダラのマリア」があるアレッツォ大聖堂を目指して坂道を登る。このフレスコ画は縦長の古典的な大理石のアーチの中に立つ 一人の女を描いた肖像画である。緑色の長衣の上に白い裏地のついた赤色のマントを羽おり、左手に香油瓶を手にしただけのいかにも健康的で豊かな体躯の少女とも言えそうな若い女である。肩に流れる長い髪の毛は克明に描かれむしろ肉感的で さえある。頭上におかれた金色の円環がなければ、この画がマグダラのマリアと題される手がかりを見つけるのは困難である。毅然として静謐な表情とはいうもののその目鼻の形やとくに口つきなどは現存する女の再現としかいえないものである。 宗教画として扱いながら日常的な人間の存在感を与えている点にピエロの画が同時代の他に類をみない特徴の一つのように思われる。眼差しはやや 伏し目勝ちながらやはり宙を見て瞑想的である。 マグダラのマリアの目でもなく、単なる若い女の目でもない、ピエロ自身の思想がそこに現われて いるように思えてしかたない。

「マグダラのマリア」部分


 十六世紀というイタリア・ルネッサンスの只中にあって画家としても市民としても立派に地位を得たピエロが宗教をどのように受け止めていたのか気になってしかたがない。与えられた時代の宗教の体制のなかで、あくまで主体的なひとりの人間として宗教に向き合っていたのではないだろうか、そう思われてしかたがない。その点が現代的だったと言えるのではないだろうか。技法上の新しさは別にしても。       

-続-

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