―かたつむり旅日記(7)―
長谷部 司
四月十五日(金)アッシジ
いよいよ快速急行でアッシジに向かう。アッシジの聖フランチェスコ教会にあるジオットの一連のフレスコ画を見るのが最大の目的だが、それ以上にかねがね自分の中で育まれていた特別な思いをアッシジという場所に対して抱いていたからである。ローマ法王が君臨する正統的なカソリックでもなく、人間的主張の強いプロテスタントでもない、弱者に優しい心を注ぐ聖フランチェスコの質朴な信仰にアッシジで接しられるのではないかと期待していたからである。
トスカーナからウンブリアに入り、ウンブリアの野を横切ってペルージャを過ぎるにつれていよいよ高まる期待は、右手前方のゆるやかな緑の山麓に横たわるアッシジの町が現れて来た時、裏切られることはなかった。まさに期待どうりの美しさだった。陽光のもとアッシジの白い街並みが緩やかな丘陵の背に這うように清潔感に溢れて伸びていたのだ。実際にその場所に、三次元の場所に身を置く喜びがこの時ほど実感されたことはない。
降り立ったアッシジの駅の午後は明るく清らかに閑散としていた。すぐ接続するバスをやり過ごし、明後日に向かう次の目的地シエナまでの切符を買おうと切符売り場に行くと、窓口はもう閉まっていて次の電車が来るまで買えないというのんびりした駅のサーヴィスである。次のバスを待っていると東洋人らしい中年の女性がバスの時刻表を携帯のカメラで写している。日本人かと声をかけると、韓国人という答えが日本語で返ってきた。カソリックの信者らしく今夜修道院に泊まるのだと言う。ソウルの旅行代理店に勤めているが、夫と中学生の息子を家に残して聖地巡りをしているのだという。いろいろな生き方があるものだと思う。
バスに乗って十五分ほどで聖堂にほど近い丘の麓に着く。町の入口の大きな石の門をくぐるとすぐ左手は聖堂に向かい、右手は街の中心部に向かう石畳の坂道である。道に面した建物はすべて中世そのままの古い姿だが、晴天で日中だったせいか暗さはなく寧ろ明るく清々しい。坂道を上って辿りついたホテルで案内された部屋が北側に窓一つしかない薄暗い部屋だったので、はるばる日本からアッシジまでやって来てなんの景色も見えないこんな部屋に二晩も泊まれないと思わず大声で抗議すると、この日本人の剣幕に怖れをなしてか、別棟の離れ家風の一室に換えてくれた。
剥き出しの石壁に沿って狭いシングルベッドが置かれ、必要最低限度の調度を備えた小さな部屋だったが、南に面した出窓を開けるとすぐ下は草花を植えた芝生の庭で窓枠が丁度絵の額縁になっていたので早速スケッチにとりかかる。屋内からなので野外よりは落ち着いて描ける。
窓からのスケッチ
遅い昼食をとったあと、いよいよ聖フランチェスコ聖堂を訪れる。長四角の箱のような広場の右奥にある聖堂下院の入口から入る。外の明るさに比べて中は想像以上に暗い。目が慣れたあとでもこの印象は変わらなかった。ラヴェンナで見たビザンチンのすでに信仰を失い風化してしまった教会に比べて、ここには生きている信仰の温かさがあると思った。信者でない自分にとって、聖フランチェスコの遺品に溢れるこの聖堂下院の雰囲気は重すぎて、一通り見たものの長居する気持ちにはなれない。その結果聖キアラの肖像画も夕焼けのマドンナの画も見過ごしてしまう。上院に上る途中で柱廊に囲まれた中庭を見下ろす広いバルコニーに出た時太陽の光が嬉しく、新鮮な空気が美味しかった。
聖堂上院は、建造が下院よりも時代が下っているせいもあってか、天井も高く広々とした大会堂といった趣である。しかもその内部が全面フレスコ画で埋め尽くされているので、一枚一枚の画の内容よりも、装飾的なタピストリーが張り巡らされているような感じである。
さて肝心なジオットであるが、スクロヴェーニ礼拝堂のジオットを見てしまったあとでは確かにジオットの様式によって描かれてはいるものの、全体として大味で内容の薄い印象を受けざるをえなかった。一画面の大きさがスクロヴェーニの約二倍ということもあろうが、画面の密度や緊張感がいかにも不足しているように思われるし、また画面の大きさを満たすために不要な道具立てが増えて、ジオットに特有な構図の簡素な力強さが損なわれているようにも思える。これはあくまで我見であるが、当方も画を嗜む一人である以上、自分の目を信ずるほかはない。何よりも失望したのは、ここのジオットの画には自分が一番重要だと思っている画中の人物の眼差しに強さが全くといっていいほど見られないことである。度重なる修復や別人の手に為ったものであるならば、しかたないことであるが。という次第で、ここでのジオットの画は期待外れだったというしかない。 ジオットをあとにして聖堂を出ると既に夜気の漂うアッシジの空気が例えようもなく気持ちいい。ホテルの裏に回り外から直接鍵を開けて離れの部屋に戻る。ベッドに横たわると剥き出しの石壁を通して外の冷気が伝わって来る。アッシジの地でひとり寝るのだという思いを深くする。
朝五時には起きて朝食もとらず部屋を後にする。昨日見付けておいた聖堂上院正面の芝生の片隅に植えられた一本のオリーブの若木をスケッチするためである。さすがに早朝の通りには人影が無い。まえもって見当をつけておいたスケッチの場所に着いて、あらためてオリーブの木を眺める。昨日半日歩きまわって描きたいと思ったのが聖堂や風景でもなく、このオリーブの木一本だったのが間違っていないか確認するためである。間違っていないと思う。大げさに言えば、この高さ2メートル足らずの一本のオリーブの木の姿に、アッシジの地の美しさのすべてが象徴されていると思えたのである。 描き終わったあとはいつものことだが、画の出来栄えは別にして、集中できた満足と達成感に浸ることが出来る。
むりな姿勢と冷気で固くなった身体をのばしながら、われながらいい齢をして酔狂だとおもう。そんな姿を通りかかったアメリカ人の青年に写真に撮ってもらう。
一仕事終わった気楽さで気晴らしにハイキングがてら丘の頂上にある中世の砦の跡ロッカ・マッジョーレに登ることにする。丘に通じる緩い傾斜の裏道を上って行くとみるみる右手に眺望が開ける。まさに麗らかな春のアッシジの野と山である。
上るにつれて人家はなくなりオリーブが生い茂る山肌を経て頂上に着く。ここから見下ろす大聖堂は大自然の緑の中で小さい薄クリーム色の玩具のようである。あの中に七百年の信仰が詰まっていようとはとても信じられない。カナダ人の夫婦が声をかけて来て年齢の話になり、八十四、五歳だろうと言われる。日本人の常として外国ではいつも年より若く見られていたので、我にも有らず愕然とする。考えてみれば生まれて初めての経験だったとはいえ、自惚れもいいところである。左側に続く緑の山の斜面が美しいので、これもスケッチする。
すこし離れたベンチに恋人らしき二人が坐っていたが、この二人は来た時からずうっと黙ったままである。一言の会話もないことはその重い佇まいからみて明白だった。男女の仲は世界中どこでも難しいものだと思う。
せっかくここまで来たのだから砦の中を見物することにする。砦の内部は崩れた石壁と狭い通路と擦り減った石段で迷路のように結ばれて天井も窓もない吹きさらしである。途中、中世に使用された様々な武具が展示されていたが、人殺しを目的とした禍々しい工夫と冷たい鋼の光には時代を超えて恐ろしい戦争の残酷さを突きつけられる思いだった。しかも十字軍という戦争に熱狂する戦士達と小鳥を愛した聖フランチェスコを慕う信仰者達がこの小さなアッシジの地で同時代の生存を共にしていたのである。
禍々しい中世の武器の姿が頭から離れぬまま丘を降りて来たアッシジの街中は土曜の午後の観光客で溢れていた。一日分の精力を使い果たしてしまった気分だったので、聖キアラ寺も外から眺めただけ、街の中心部も重い足を引きずって素通りしただけだった。
夕食は庭に面した別棟のレストランでとることにする。着替えて予約した六時に出向くが客はまだ一人もいない。気位の高そうな女主人が席に案内する。腸の具合がよくないので軽めのコース料理とミネストロンスープを注文する。この店の一番安いコースだったせいか対応が素っ気ない。早い時間のしかも一人旅の東洋人の客に対するこのような応対には慣れているので気にしない。しかし窓からの眺めは素晴らしかった。西の山際に入ろうとしている夕日が目の前に広がるアッシジの野いっぱいを満たし、金色の空がゆっくり茜色に変わっていく。静穏の中に荘厳さを湛えたひと時であった。陽が沈み切りぼつぼつ客が入ってき始めたころには店を出る。通りに出ると昼間と違って服装を整えた人々が三三五五聖堂に向かっているので後についていく。大聖堂で夜のミサが行われるのだという。一般の拝観は終っていたが聖堂上院の内部には煌煌と明かりが灯り、入り口には人が群がっている。中を覗こうとすると、前もって許可された信者以外は入れないと注意される。聖フランチェスコの公平で素朴な教えを慕うアッシジの聖地でも、結局このような世俗的差別が組織化された宗教には当然必要なのだ。アッシジの聖性を信じかけていた気持ちが白ける思いである。下院の前の広場では暗闇の中で町の若者達が中世の衣装を着け掛け声をあげながら旗を投げ合う祭りの練習をしていた。人気のなくなった狭くて暗い畳の道はまさに中世に逆戻りする気分だった。
- 続 -
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