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執筆者の写真東京黒百合会

ルノワールとパリに恋した12人の画家たち

(9/21-2020/1/13 横浜美術館)

 小石浩治


開館30周年記念―オランジュリー美術館コレクション


 20世紀初頭のパリ。自動車修理工だったポール・ギョームは、アフリカ彫刻へ感心を寄せたことがきっかけにモンパルナスの芸術家たちと親交を深める。そして画廊を開設し自らもコレクターとして作品収集を始めた。彼が私邸を美術館にする構想を抱きながらも、夢を果たせぬまま若くして世を去った後は、妻ドメニカが遺志を受け継いだ。オランジュリー美術館は元はオレンジ温室だったが、1927年、モネの「睡蓮」の連作を収めるために美術館として整備され、1965年、フランス国家に寄贈された。現在は印象派とポスト印象派の美術館となっている。(美術館チラシから)


展示作品を年代別にみると-----

 1892:ルノワール「ピアノを弾く少女たち」

 1875:モネ、シスレー。1879:セザンヌ 

 1905:ルソー1914:ユトリロ、1915:モデイリアーニ 1922:スーテイン 1923:ローランサン、ピカソ

 1924:ドラン、マテイス 1930:ドンゲン。


 本展の目玉となったルノワールの「ピアノを弾く少女たち」のこと。家庭にピアノがあると言うことは、当時のパリ市民にとって、裕福で文化的な生活の象徴だった。レコードやラジオが登場する以前である。画面の明るく温かい色調もさることながら、ピアノの存在が大きな意味をもつ。


 解説によると、仲の良い姉妹の肖像画に見えるが、実はルノアールが初めて国の依頼で描いた作品で、同じ構図の作品を6点も制作している。

少女たちはおそらくプロのモデルだろうと言う。

 少女がピアノに頬杖をついているが、少女が左手を楽譜の方に差し出している構図のものを国が買い上げたそうだ。

ここまで有名になる前、1870年代までのルノワールはサロンでの落選が続き、印象派展もさっぱり売れず貧乏だった。78年にシャルバンテイエ家の注文があってから肖像画の注文が増えたと言う。


「座るジョルジョット・シャルバンテイエ嬢」1878年(明治9年)ブリジストン美術館蔵


 1870年代の印象派の画家たちにとって、戸外制作は必要不可欠なことであった。刻々と変化する自然の姿をその場で観察することは、アトリエとは比較にならぬ多くの情報を画家にもたらした。 

 19世紀に入ってからの画材の発達、絵具を保存するチューブの開発は画期的だった。それまでは顔料を豚の膀胱を利用した袋に詰め、油と乾燥剤を携行、必要に応じ顔料を加え油と混合する。

 フランスで1850年頃に売り出されたチューブ入り絵具はこの問題を一気に解消した。光の効果、軽快な筆使い、明るい色調―。前期印象派の代名詞となった。        






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