「海渡った明治の絵」(5/21~7/10・於: 府中市美術館)
府中市美術館にて<ただいま「やさしき明治」>高野光正コレクション展が開催された。本展に先立ち、2019年9月に府中市制施行65周年記念展<おかえり「美しき明治」>が開催されている。
(下図ポスター:左:2019年「美しき明治)展 右:2022年「やさしき明治」展いずれも笠木治郎吉作)
(令和 2年1月号会報「花を摘む娘」笠木治郎吉作)
今回展の笠木治郎吉作「新聞配達人」
絵画収集家・高野光正氏(1939年生れ)の苦心談が新聞に掲載されたので改めて本誌にご紹介したい。
[6/17日付・金曜日―日経新聞・文化欄 ―“海渡った明治の絵 里帰り” 高野光正]
明治期は多くの外国人が来日し、日本の風景や庶民の暮らしぶりを絵に描いた。彼らはまた日本人が描いた絵も買い求め、いずれも日本土産として本国に持ち帰った。こうして海外に渡った絵は、これまで殆ど知られてこなかった。私は英米に眠っていた日本の絵画を40年以上かけて700点余り収集し、「里帰り」させてきた。
提灯屋や新聞配達人、猟師に農民。働く人々の様子を克明に描いた笠木治郎吉は全く知らない画家だったが、作品を一目見て購入を決めた。水彩とは思えない濃密な描写からは、人々の息ずかいや話し声まで聞こえてくるようだった。
片隅に入った「J・Kasagi」のサインだけを手掛かりに、画家について調べた。外国人が多かった横浜近辺に見当をつけ、番号案内で調べたカサギさんの家に片っ端から電話した。空振りばかりが続いて諦めようと思っていた時、ようやく「それは私の義父です」という女性が現れた。
「いつか尋ねてくれる人が現れると思っていた」。涙を流すご遺族の存在に、努力が報われた気がした。
今、国内外で50点余りの笠木作品が確認されているが、詳細な調査はこれからだ。
画家の浅井忠に先立って洋画の普及に尽力した田村宗立の「蒙古襲来図」は米国から持ち帰るのに苦労した作品だ。絹に描かれた幅2.5m以上の大作で、元の持ち主の大邸宅にずっと掛けられていたため、下部がひどく傷んでいた。日本から信頼できる修復師を詠んで応急処置を済ませたが、さてどう梱包しよう。二人でニューヨーク中を歩き回り、最終的に巨大な水道管に丸めて入れた。
渋る航空会社を説得して機内に持ち込んだが、さぞかし迷惑な客だったことだろう。
絵を集め始めたのは父、高野時次の影響が大きい。若い頃に画家を志していた父は、事業の傍ら尊敬してやまない浅井忠の作品を収集し続けた。取集した73点は、父の死後、遺志を継いで東京国立博物館に寄贈し「高野コレクション」として多くの方に楽しんで頂いている。
子供の時は年に一度、作品の虫干しを手伝うのが何よりの楽しみだった。米国留学時にギャラリーを訪ね歩くようになり、後年、浅井忠の薫陶を受けた画家、鹿子木孟郎※の作品をニューヨークで見つけ購入した。それから日本を描いた絵の面白さに目覚めた。※ 岡山出身・洋画家、関西美術学院長
高橋由一や五姓田義松らに洋画を教えた英国の記者チャールズ・ワーグマン、後に英国を代表する画家となったアルフレッド・イースト、ニューヨーク生まれのハリー・ハンフリー・ムーアら、幕末から明治の日本には多くの外国人が居た。彼らは日本の名所だけでなく、ありふれた風景に暮らす市井の人々に美を見出し、みずみずしい水彩画に残した。彼らに学んだ日本人もまた、急速に水彩画の技術を発達させ、明治の日本を描いた。
優れた作品は買い手が付いて海外に渡った一方、国内では震災や戦争で多くが失われ、忘れられていった。集めた作品の一部を東京の府中市美術館の展覧会で紹介している。
美術館の方からは、これまで比較的安価で粗末なものという印象が付きまとった「お土産絵」のニュアンスを払拭する作品と仰っていただいた。近代美術の萌芽を迎えた明治期に確かに存在した豊潤な絵画の世界。コレクションがその一端を垣間見るお役にたっているなら、これほど光栄なことはない。(たかの・みつまさ=絵画収集家) ――――――――― (小石記)
アルフレッド・パ―ソンズ(英・水彩、挿絵画家)「富士山」
渡辺文三郎「東海道薩 峠之図」
笠木治郎吉 「提灯屋の店先」
モーテイマー・メンぺス(英・画家、版画家)「芝居小屋」
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