top of page
  • 執筆者の写真東京黒百合会

春の一泊写生会

2023/5一泊写生会・(「海の幸」記念館・館山市布良)を訪ねて―   小石浩治


 記念館の玄関横のブロンズ像横に、大村智博士(昭和10年生・ノーベル生理学・医学賞受賞)の写真があった。記念館=小谷家住宅は、明治20年代の漁村を代表する建造物で、館山の有形文化財に指定されていたが、平成17年(2005)から建物の保存運動が始り、NPO法人・青木繁「海の幸」会と大村博士は、全国の有志と共に4300万円の資金を集め、2ケ年の修復工事を経て平成28年(2016)春に公開が始まった。

 ノーベル賞受賞は前年の平成27年(2015)・80歳であった。

 上記の賞のほか、学術賞、科学アカデミー賞など、数多く受賞している。

 大村博士は北里大学院「北里生命科学研究所」を創設、新婚旅行に館山市を訪問し、「海を幸」制作現場をみて、小谷家住宅の保存を痛切 に感じたとのこと。また、芸術はじめ多岐にわたる分野で活躍されている。

 博士は幼少から絵画に親しみ、故郷の山梨県韮崎市に、40年にわたって収集した絵画など、美術品を集めた美術館を開いた。更に、自身が建設した病院に多くの絵画を飾り患者の心を和ませて治療を助ける「ヒーリングアート」(絵画等の“癒しの空間”)をいち早く実践した。

 座右の銘に「成功した人は失敗を言わない。でも人より3倍も失敗している。」 

 

 現在の当主小谷福哲・記念館館長の解説で、当家は内村鑑三が絡んでいることを初めて知った。

 小谷家先代当主・小谷治助は漁業頭で鮮魚仲買商のほか、村会議員等の要職を歴任、村政に大きな貢献を果たしていた。青木繁が来訪した時の当主は小谷喜録氏。24歳で富崎尋常小学校の教員となるも明治23年(1890)に退職し家業を継いだ。同年、水産伝習所(現東京海洋大学)3回生の夏期演習が布良で行われ、漁業指導等の世話をしていた。

 夏期演習には、水産伝習所教師であった内村鑑三が漁業調査のため、生徒を引き連れていた。その時、村の顔役の神田吉右衛門が居合わせていた。

 当時、神田吉右衛門は、小谷治助、喜録らと共に先駆的な村政を推進したリーダーで漁業組合頭取、安房水難救助積金制度設立した。後に富崎村長も務めた。内村は自著「余が聖書研究に従事するに至りし由来」に、布良で神田に出会ったことが水産技師から宗教家・思想家の道に進む大きな転機となったとある。この時、内村は29歳、神田は56歳。

 神田は、「いくらアワビの繁殖を図っても、いくら漁船を改良し、新奇な網道具を工夫しても、彼等漁夫たちを助けることはできない。 何より刹那的に生活する漁師(人間の心)を改良しなければだめだ」と話したという。内村はこの話に感得し、神田と出逢った布良の出張を終えるとすぐに退職。その後、キリスト教宗教家の道を歩み出した。

※ 内村は札幌農学校卒業後、開拓使に勤務して水産を担当。農務省水産課勤務となり

「日本水産魚類目録」を作成。渡米・帰国後の明治22年に水産伝習所の教師になった。

 内村が従事した「日本重要水産動植物の図」が小谷家に残されており、これを参考に

青木が魚を描いたと伝わる。 “海の幸”の「鮫」も図鑑に掲載あるものと言う。

※ 内村は、明治14年卒業の際、新渡戸、宮部、内村の三人組は、札幌の公園で“将来を

「二つのJ」のために捧げる”と誓った。Jesus 即ちイエス・キリストとJapan即ち日本。

キリスト教の無教会主義は、この思想のもと内村が形成した。


 青木繁の半生・画業を年表で見てみよう。

(資料:「日本の名画」第11巻、中央公論社刊 檀一雄、大島清次、高階秀爾 執筆)

 17歳 洋画家・小山正太郎の画塾不同舎に入る、18歳・黒田清輝の居た東京美術学校西洋科

入学。同年、上野の図書館で気の向くまま古事記、日本書紀、伝説神話など読む。

20歳 徴兵検査不合格、久留米高等小学の同級生坂本繁二郎と妙義山へ写生旅行、

21歳 栃木から福田たね が上京、不同舎に入る。この頃青木は下宿を転々と変える。

22歳(明治37)美術学校卒業、7,8月、福田たね、坂本繁二郎らと房州布良に写生旅行。

   白馬会第九回展に「海の幸」出品、大いに話題となる。久留米から姉弟が上京、

   一緒に神明町に住むが、同居の福田たねとの間にあって苦しむ。日露戦争開戦。

23 歳 生活困窮。身重のたねを伴い再度房州旅行。8月たねは茨城県で一子幸彦

   (後の福田蘭童)誕生。11月父病気のため久留米に帰る。

24歳 8月上京、9月「女の顔」白馬会に出品するも予選で落選。

   モデルは福田たね。この年、日本美術院改組。

25歳 1月、栃木県の福田たねの実家に身を寄せ、同家の援助のもと「わだつみのいろこ  の宮」(右図)の制作に没頭。3月、東京府勧業博覧会に出品のため上京。博覧会開催中に、自ら国民新聞等へ「いろこの宮」の解説文を寄稿。しかし博覧会で三等賞末席の受賞、失意に沈む。その後、たね、幸彦たちと永遠に別れる。


26歳 「漁夫晩帰」の制作に掛るが酒色に溺れ、気力に欠ける。

27歳 天草地方、熊本地方,佐賀地方・・・と転々とする。

28歳(明治44)唐津で「朝日」等を描く。病状悪化、喀血。3月福岡で永眠。生涯の落日になお「朝日」を描く。これが絶筆。

※「海の幸」は作成時期が青木の最盛期であり、以後は展覧会入選

も叶わず、下降線をたどっていった。「海の幸」のモデル福田たねは、青木21歳の時(明治36)不同舎に入門、恋愛関係になった。

一子幸彦は戸籍上は父の豊吉の子として届けられた。

青木の「いろこの宮」は、たねの実家が支援した。たね はその後、明治43年青木が28歳の時、野尻長十郎と結婚、昭和29年の野尻歿後、再び絵を描き始め、示現会などに出品した。昭和43年83歳で死去。幸彦(福田蘭童)の子に石橋エータローが居る。

下図の小谷家住宅案内書に載る写真は「福田たね画・青木繁 海の幸制作中に追思」

(個人蔵)とある。制作年次は解らない。その下は“海の幸”の(モデル・たね)。









閲覧数:16回0件のコメント

最新記事

すべて表示

投稿

投稿

bottom of page