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執筆者の写真東京黒百合会

有島武郎終焉地碑

(2020.8.31) 長谷川 脩

 今年8月、軽井沢を訪れる機会があり、三笠という地に上記碑があると教えられて行ってみた。カラマツ並木沿いの標識には「有島武郎終焉地碑」の下に「チルダ友情の碑」と小さく書かれていた。その横を折れ少し行くと車は進めなくなり、歩いて勾配の道を上ったところに標柱が見えた。説明パネルが設置されていて、以下の文章が記されていた。

 

 昭和28年、有島終焉の地“浄月庵”跡にこの碑が建てられました。この浄月庵とは旧三笠ホテル近く有島武郎の別荘があったところで、大正12年6月9日この別荘で波多野秋子と共に命を絶ったのでした。有島生馬の筆により次の詩文が刻まれています。

 大いなる可能性 エラン・ヴィタル 社会の心臓(エラン・ヴィタルとは生命の飛躍の意)

さういふ君は 死んじゃった! 運命の奴め凄い事を しやあがったな!


石碑とパネルの説明文

 この説明では武郎の弟・生馬が詩文を作ったように取れるが、追悼の辞は、武郎と同期生で親交の深かったドイツ文学者・吹田順助の「混沌の沸乱―有島武郎の霊に捧げる―の一聯」から採られている。大正12年は、9月に関東大震災が発生しており、跡地は長く放置されていた。有島家は男五人、女二人の七人兄妹で長兄が武郎、生馬は次男。軽井沢・三笠の地は妹・愛の嫁ぎ先である山本家が三笠ホテルの経営者であったという縁で武郎の父・武が選んだ。父の死後武郎が譲り受けて、大正五年~十一年迄、毎年家族と避暑に来ていた別荘。平成元年(1989)に塩沢湖畔の「軽井沢タリアセン」(ウェールズ語でケルト神話の芸術を司る妖精タリエシンに由来)の施設内に移築保存されているらしい。

 写真で見える標柱の左側にもう一つ石碑がある。「友情の碑」なのかなと思ったが説明文はなく碑文も殆んど読み取れない。武郎はアメリカ留学後、ヨーロッパ文化・芸術を訪ねる旅を約半年間も続けた。スイスではシャフハウゼンでホテル[シュパーネン] (白鳥亭)に宿泊。このホテルの一人娘チルダ・ヘックと知り合った。宿を離れた翌日から始まる文通はそれから16年間、80通に及び、その一節が碑文に刻まれているらしい。* 驚いたことに、この碑はチルダ本人が昭和12年の来日時に建てたものだと帰宅後知った。終焉地碑より16年も前のことだ。石碑は台座にもたれ掛かるようなユニークな形をしている。「チルダ友情の碑」となってはいるが、武郎の生涯を彩った女性チルダからの深い想いの惜別の碑に見える。彼女は生涯独身だったらしい。

 長く憧れを抱いた日本を訪れ、武郎の面影を辿り札幌にも足を延ばしていることを、その後の調べで知った。武郎からの手紙80通はチルダの寄贈により、現在シャフハウゼンの図書館に保管されている。一方、チルダからの返信は残念なことに昭和20年の戦災で全て消失して存在しない。(どちらの碑も、説明がやや不正確で、不足気味だと感じられた。)

チルダ友情の碑(終焉地碑の左側にある)

 明治40年、札幌農学校が東北帝国大学農科大学になり、併置された予科に有島武郎が英語教授として赴任してくる。クラーク博士のもたらしたフロンティア精神や自由な校風は学生の課外活動をも後押しして、その翌年、美術クラブ“黒百合会”が誕生している。有島は寄宿舎「恵迪寮」に住み、同時に絵の好きな学生を展覧会開催等へ強く導いた。有島は黒百合会設立と必然的に結びついている。

 北大に入学した時、受験生活から解放され、新天地の北海道へ行ったのを機に、どうしても習得したかったのが油絵だった。有島武郎の名前は知っていたが作品は読んだことはなかった。その有島武郎が作った黒百合会に迷うことなく入部した。

 卒業の年、創立60周年への出展、それからも招請のあった90、100周年の記念展に出展させてもらい、その都度“絵を描くことの素晴らしさ”を感じてきた。この夏、有島終焉の地を訪問したことで改めてそのことを思い、黒百合会が存在してくれたことのありがたさを再認識する有意義な機会になった。

*「 愛の書簡集 有島武郎からチルダ・ヘックへ 」

星座の会編 (株)共同文化社 (札幌) 発刊1993

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