写真と文 小石浩治
実業家・松方幸次郎が、1910-20年にヨーロッパ各地で収集した美術品のコレクション。
一度は見たことのある著名な画家の作品、松方の収集したコレクションとはどういうもので
あったか、どのように形成され、如何に激動時代をくぐり抜けてきたかを語る展覧会である。
1)松方幸次郎のこと
1866年生。薩摩出身で蔵相、首相を歴任した明治の元勲・松方正義の三男。18歳から6年間の米国留学1891年松方首相秘書官も務めている。1918年大戦終戦後も美術品収集を続ける。1950年死去。
※余談:有島武郎の父・武も維新後大蔵省に勤務、武郎出生当時(1878年)、松方正義に従い欧米に赴いていた。後、有島達の「白樺」(創刊1910年)誌上に紹介された西洋の画家は、若い世代の読者を刺激し大正時代の美術を燃え上がらせた。
(下:「松方幸次郎肖像」1916/フランク・ブラングイン画)
2)時代背景を考えると、松方が生まれた年(慶応二年)に黒田清輝も生まれており、高橋由一が洋画塾を開くなど、明治の画家たちが油絵という西欧伝来の技法の習得と普及に努めなければならなかった時期、欧州では印象派の画家達が活躍した時期だから、松方が幼い頃から特に関心を示した画家や美術品があったわけではないように思う。ではなぜ松方は美術品を収集するようになったのだろうか。
松方は18歳から6年間の米国留学を経て、30歳で川崎造船所の社長に就く。1904年日露戦争後、1918年の第一次世界大戦中の船舶需要の拡大で16年にロンドンに赴き、2年余り現地で販売(貨物船の販売、鋼材調達)を指揮。巨額の利益を上げた。そんな折、ふと立ち寄った画廊で画家・フランク・ブラングイン氏と会い、彼の描いた絵の購入したことがきっかけと言われる。当時、第一次世界大戦中、欧米各国では国民の愛国心を煽るポスターが至るところに貼られていて、それをみた松方は「貧弱なポスターしかない日本は、文化の面でも欧米に遅れをとっている」と感じた。その大戦のポスターの作者がフランク・ブラングインであった。当時の日本で優れたアート作品を見る手段は雑誌しかなかった。画学生が本物の芸術に触れるには留学するしかない。では貧しい学生はどうするか。「本物の油彩画を集めて日本に送って見せてやりたい。我が国の人々が西洋人の心を理解する手助けをしたい。そうすれば西洋的な“もの作り”、生活様式を自在に取り入れられるだろう・」。
そこで日本に西洋美術を収蔵する美術館を東京に建てようと考えた。松方の美術収集の指南役であったフランク・ブラングインも共鳴し、「共楽美術館建築構想俯瞰図」(下図)
を描き設計案を示した。
(参考資料;7/14 ・NHK日曜美術館、7/20・ 日経新聞文化欄)
しかし、1927年の経済恐慌が状況を一変させ、美術館設立は実現しなかった。川崎造船所も経営危機に陥り、松方は社長の座を降りて自らの財産を会社の財務整理に当てること
になった。日本に運ばれていた美術品は数度にわたる展覧会で売り立てられ、散逸してしまった。
その後、松方は造船所社長辞任後も、石油会社社長や衆議院議員として活躍、1950年鎌倉で死去。84歳であった。
3) 松方が収集した美術品、パリの宝石商から買い受けた浮世絵コレクション約8千点を含め、手に入れた作品総数は1万点に及ぶと言われる。そのうちかなりの部分がヨーロッパに残されていたが、ロンドンの倉庫にあった作品群は1939年の火災で失われ、内容・数量は不明である。一方、パリに残された400点の作品はリュクサンブール美術館(当時フランス現代美術館)館長・レオン・べネデイットに預けられ、彼が館長兼任したロダン美術館の一角に保管されていた。この作品群は第二次世界大戦末期に敵国人財産としてフランス政府下に置かれ、1951年サンフランシスコ平和条約によってフランスの国有財産となる。しかし、その後、フランス政府は日仏友好のため、その大部分を松方コレクションとして日本に寄贈返還することになった。但し条件として、①日本政府がコレクション保管・展示するための専用美術館を設置する、②美術品の輸送費は日本側が負担、③ロダンの「カレー市民」の鋳造費は日本が負担することを示された。ここに晴れて1959年に「国立西洋美術館」が誕生し、松方の念願の「共楽美術館」設立が現実のものとなった。火災で焼失、売却、散逸、更にはフランス政府が返還を拒否する等と厳しい試練の後、現在約1000点の西洋絵画が美術館に残っている。中でも右図:ゴッホの「アルルの寝室」1889年は、フランス政府は手放さず、現在、オルセー美術館の収蔵品となっている。
4)油彩画群に一つ水彩画
展覧会展示の作品は過去に雑誌や写真で見たものが多いが、やはり現物、ナマの迫力には敵わない。
モネの「睡蓮」1916、ルノワールの「帽子の女」、同「ハーレム」、ピカソも模写したというシャバンヌの「貧しき漁夫」(1887―92年)など、これら作品群は松方レクションなのだと思うと、松方幸次郎の審美眼に改めて感心する。
多くの油彩画に囲まれた中で目を引いたのは、ポール・シニャックの「漁船」(下図)である。シニャックは1884年にスーラと出会って共鳴し、次第に装飾性の高い絵を描くようになった。
「F・フェネオンの肖像」(ニューヨーク近代美術館蔵)1890年のように色彩分割と点描法を用いたが、戸外で実景を前に制作するに当り、油彩画をやめて水彩画の技法をとるようになった。彼は若い頃から海を愛し、自らヨットを駆って地中海などを乗り回していた。
活気あふれる港湾の情景を素早く描き留めた。油彩画では表現しがたいもの、つまり、刻々と変化する自然の瞬時の情景を水彩画特有の効果に託したのである。
あたかも点描画に掛けた時間を取り戻すように漁船を映し出す海面の光の反射、揺らめき、自然の一瞬の現象を素早く水彩の筆で捉えた。
ポール・シニャック「漁船」
(水彩、鉛筆、グアッシュ。20世紀初頭制作)国立西洋美術館蔵
5)松方コレクションから。
シャバンヌ:「貧しき漁夫」 1887-92
モネ:「舟遊び」1887
ロダン:「考える人」 1881-82
ロダン:「カレー市民」1888
ルノワール:「帽子の女」1891
ゴーギャン:海辺に立つブルターニュの少女たち」1889
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