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執筆者の写真東京黒百合会

江戸の敗者たち

(4/15~5/16 於:太田記念美術館)   小石浩治                                       

 ウイルス感染拡大の中、都内各美術館のイべントは殆ど中止・延期になっている。

そんな中、太田記念美術館はnoteを利用したオンライン展覧会を実施していた。

表題について

―「判官びいき」と言う言葉があります。源平合戦で平氏に連勝を重ねながら兄・頼朝に嫌われ滅ぼされた源義経が判官の職にあったことから、悲劇的な最後を遂げた人物への同情、

肩を持つ感情のことを言います。・・勝者と敗者は常に紙一重の存在と言えるでしょう。

勝つこととは、負けることとは何なのか、思いめぐらせてみては如何でしょうか。」

(美術館)

拙いPC操作で何とか展示作品を見ることが出来た。遠い昔の記憶が、おぼろげながら

蘇ってきた感があった。展示品全61点は1700―1800?1900年代の制作と目録にあった。

作品解説を参照し往時を振り返りつつ、ほんの一部だが、以下にご紹介したい。


◯ 第一章:「歴史の中の敗者たち」

最も多くの作品が並び、歴史上の政争、戦争で敗れた者達を描いた浮世絵を紹介する。

冒頭は菅原道真、続いて治承・寿永の乱、源平合戦。源義経。平清盛。壇ノ浦の戦い、

平家一門の亡霊等。時代は下って南北朝時代。楠正成の子別れ。そして本展の代表作・

明智光秀を打擲する織田信長。更に赤穂事件の大石内蔵助・義士の夜討ち。

幕末は白虎隊の飯盛山の自刃・・と浪曲・歌や芝居の名場面が続く。

    「菅公配所之図」 小林清親作 1902(明治35)


△ 左大臣・藤原時平の讒言で大宰府左遷となった菅原道真は、紛れもなく政争に敗れた敗者である。しかし後に神格化され、数多くの逸話を生み出していった。


    「義経一代図絵」 歌川広重作 1834(天保5)頃

     副題:「三子を伴て常盤御前漂浪す」


△ 治承・寿永の乱。大和に逃げる常盤御前の胸に抱かれる牛若は、後の源義経。

平家台頭により衰退した源氏は、この時点では敗者と言える。常盤(源義朝の妾)が連れる子(今若、乙若)は仏門に、牛若は鞍馬山に登り、伝説では天狗から剣術を学ぶ。


    「楠 正成」 豊原国周作 1893年(明治26)


△ 後醍醐天皇を救けて鎌倉幕府を翻弄した楠正成。陣を訪れた息子の正行(まさつら)

との最後の別れとなる芝居「桜井の別れ」の場面。正成演じるは新派劇の父と称される   川上音二郎。足利尊氏軍勢を撃つとき、11歳の正行を呼び<帝のために命を惜しみ、忠誠

をつくし一族郎党と共に生きて何時の日か朝敵を撃て>と諭し、菊水の紋の短刀を授ける。

  「♪ 青葉茂れる桜井の・・とくとく帰れ故郷へ」と、昔、歌ったものである。


  「此人にして此病あり」 歌川豊宣作1883年(明治16)


△ 今回展を代表する作品。大河ドラマでお馴染みの信長と光秀のお話。

江戸時代の人にとっては、主殺しの悪人としてだけではなく、小説・歌舞伎では非情な

主君に嫌われて侮辱を受け、恨みをつのらせる弱者としての側面を持つものだった。

図は「絵本太閤記」、信長による恵林寺(武田信玄の菩提寺)の焼き討ちを諫めた光秀が

家臣達の前で信長に鉄扇で打たれる場面。題名の由来は中国故事に「立派な人でもこんな

悪い病に罹って・」と過酷な運命を嘆く話だったが、転じて「立派な人だが一つの欠点     (色欲や賭け事)のために身を亡ぼし不善をなし、才能を伸ばせない」の意に変る。

   


     「初代吉右衛門の馬たらひ光秀」 名取春仙作  1925年(大正14)

   

 ※「馬盥」=馬を洗うのに使う盥 ※今回展の中で、一番近年の作品

△ 大正時代の新版画。表情や構図が抜群である。歌舞伎狂言「時今桔梗旗揚」通称「馬盥

の光秀」で初代の中村吉右衛門が扮する武智光秀(明智光秀)。小田春永(織田信長)が蟄居させておいた光秀に本能寺への出仕を命じる。その時、蘭丸に馬盥の花活けの水を空けさせ轡をとり、「この盃で酒を飲み干せ」と命ずる。光秀の“無念”の形相である。


◯ 第二章は「倒される巨悪」

  小説や歌舞伎の世界では、悪役が強ければ強いほど、主役が引き立つという。

  したがってモデルとなった人物は極端な脚色がなされることが多い。

     [左端・梅王丸  中央・松王丸  車上・藤原時平  右端・梅王丸]

     「 菅原伝授手習鑑・車引」・歌川豊国作 1796年(寛政8年) 


△ 平安時代、菅丞相(菅原道真)に仕える白太夫には三つ子の兄弟がいた。右大臣菅丞相に梅王丸、左大臣藤原時平に松王丸、帝の弟に桜丸。だが菅丞相は時平の策略で大宰府に流罪になる。菅丞相の恨みを晴らそうと、梅王丸、桜丸は時平の乗った牛車に襲いかかるが、松王丸が立ちふさがる。「車引の段」は梅王丸、桜丸と松王丸で、牛車の押し合いになるという単純なストーリーだが、「荒事」の演出が見どころと言われる。

父親の70歳を祝う席に集まった三兄弟。松王丸は勘当を願い、梅王丸は大宰府に行くことを願い、桜丸は自分のせいでこうなったと切腹する。

三つ子の名前は、「梅は飛び、桜は枯るる世の中に、何とて松のつれなかるらん」と詠んだ菅原道真の和歌に由来しているという。


◯第三章は「1対1!対決のゆくえ」

      「芳年武者当麻蹴速野見宿祢」 月岡芳年作 1883年(明治16)

△ 当麻蹴速(たいまのけはや)(背中側)と野見宿祢(のみのすくね)の取組の図。

日本書紀に記された故事で、垂仁天皇の時代、大和の豪族・蹴速と出雲(島根)の野見宿祢と相撲を取らせたとき、当麻は腰を踏み折られて亡くなった。当麻の土地は没収されたという。相撲の起源とされる真剣勝負である。


◯第四章は「勝敗はどちらに?」 最終章は楽しく力士谷風と遊女の酒の飲み比べの図。

        「江戸三幅対」 勝川春好作  1785年頃(天明後期) 


△ 横綱谷風と初代市川團十郎の行司役、扇屋の遊女・花扇、天明~寛政期(1781~1801)の3人のスターを描いた作品。谷風は1750年仙台に生れ、幼少より怪力であったと伝わる。

江戸に来ていた雷電為右衛門を預かり弟子として鍛え上げ、最初の黄金時代を築いた。

生涯勝率9割5分と言う驚異的な強さを誇った。将軍家から賜った弓を手に土俵上で舞って見せたのが、現在の弓取り式のはじまりとされる。



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