長谷川 脩 (2021/07)
入学時にB6版の学生便覧が配布された。裏表紙に沿革が、次の頁にクラーク像の写真があった。その後に、「都ぞ弥生」「瓔珞みがく」「校歌」の譜面と歌詞が印刷されていた。明治43年と大正9年に作られた「都ぞ弥生」と「瓔珞みがく」は、学内・学外いろいろな機会に歌われることが多く、すぐに覚えた。歌詞もメロディーも親しみやすく、「羊群声なく牧舎に帰り」「寒月懸れる針葉樹林」や「浜茄子紅き磯部にも」「鈴蘭薫る谷間にも」等、北の大地に相応しい言葉が並んでいた。
一方、校歌を聞くことは殆んどなかった。前身の札幌農学校時代、まだ校歌はなく、南北戦争で従軍経験を持つクラーク博士に縁のあった原曲、「Tramp! Tramp! Tramp!」が採用された。そして、学生だった有島武郎(22歳)に作詞させ、明治34年(1901)に披露された「永遠(とこしえ)の幸」が校歌だと随分後になってから分かった。
平成22年(2010)に東京黒百合会に入会して間もない頃、ある依頼が飛び込んできた。北大の東京同窓会が発行している会報誌「フロンティア」に「風景との対話」というコラム欄があり、毎回東京黒百合会が担当しているので、そこに寄稿するようにという要請だった。
それ以前、平成20年(2008)に黒百合会百周年記念展があって出展したので、そのことを書くことにした。春、構内に復元されたクロユリ群生地を訪ね、「サクシュコトニ川」のスケッチを基に制作した作品・油彩10号を会展に出品し、記念式典にも参加したことなどをまとめた。そして最後に、
”北大寮歌の一つ「瓔珞みがく」に「原始の森は闇くして、雪解の泉玉と湧く」と謳われた一節がある。かつての豊かな湧水と深い森は望めないかもしれないが、この「心に残る、失いたくない風景」が、これからも長く存続してくれることを強く願うのだった。“ と書いた。
これに対して編集担当から「瓔珞みがく」は「寮歌」ではなく「櫻星会歌」だとのクレームが入った。学生時もその後も、疑うことなく寮歌の一つだと思い込んでいたので事情が良く呑み込めなかった。櫻星会歌と訂正されたゲラ刷りを見たのかどうかも記憶がなく、厳密に確認もせずにそのままにしてしまった。東京黒百合会会報への転載は原文通り「寮歌の一つ」のままで載せてもらった。
その後、卒業50年のHome Coming Day(2017)に参加した折に購入した「都ぞ弥生・北大恵迪寮歌」2枚組CDの中に「瓔珞みがく」は含まれていた。
しかし、解説をよく見るとこれだけが「大正9年櫻星会歌」となっていた。この時改めて、櫻星会とは、櫻星会歌とは何なのかと思った。
植物園の「瓔珞みがく」記念碑(昭和45年建立)と櫻星章
友人、先輩、東京同窓会、北大図書館、大学広報課等に聞いてみたが判然とせず、辿り着いたのが、平成17年(2005)クラーク会館西隣に開設された文書館である。問い合わせ後すぐに、思わず膝を叩きたくなるような明快な回答があった。
”旧制北大予科時代に教官・生徒の親睦団体として「櫻星会」が作られた。創設は1911年10月、運動部、文芸部等の20数団体が所属し、部活動団体の集合組織だった。戦時により1941年解散。“
さらに、容量の重い詳細資料はコピーを郵送してくれた。名称は、札幌農学校・本科学生から引き継いだ旧制予科の徽章(櫻の輪に北斗星)に基づくらしく、学問だけではなく、幅広い学生生活を目指した当時の意気盛んな活動状況が書かれていた。
新入生を迎えるために毎年作られた寮歌とは違い、櫻星会歌は公募形式で隔年に作られた。その中で、永く受け継がれて来たのが「瓔珞みがく」だったようだ。やっとのことで櫻星会歌の疑問が解けた。ただ、「風景との対話」の文章は訂正せず、この内容を注釈文として付け加えることにした。
瓔珞(ようらく)とはサンスクリット語で「真珠の首飾り」の意味で、瓔は「珠のような石」、珞は「まとう」を表わす。顔を下げるように咲く釣鐘型の花「瓔珞百合」はクロユリの仲間でもある。
改めて「瓔珞みがく」を聴いてみると、かつての想い出が蘇って来るとともに、北の大地の命の詩歌「瓔珞みがく」が胸の奥に流れてきた。寮歌か櫻星会歌かは、特にこだわらなくなっていた。
5年後の2026年に北大は創基150年を迎える。
その時も、その後も歌い継がれていくことだろう。
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