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執筆者の写真東京黒百合会

百歳になりました! 喜多 勲



◯ 百歳記念というので絵の話はしばらく置き、 遠い在りし日を想い起こさせて頂きたい。

 私は旧制第八高等学校(※現・名古屋大)を出たが、八高入学は4月、卒業は9月、2年半で追い出された。八高在学中に太平洋戦争が始まり、学年短縮が 実施されたためである。

 大学(※1939年・名古屋帝大)の後半は勤労動員で会社に研究室に通い、当時のマグネトロン※の研究の手伝いをした。(※ 磁電管ともいう)

 大学の卒業は1945年9月、まさに終戦の直後である。指導教官は嵯峨根亮吉先生、明治

の物理学者・長岡半太郎の息子さんである。

 卒業証書には、「・・、学士試験に合格したり」とか何とか書いてあるが、終戦のドサクサで学士試験など受けていない。それで嵯峨根先生は卒業証書を我々に渡しながら「これは公文書 偽造である」とおっしゃった。しかし偽造学士ながら結構いい仕事をした同級生が多い。  (※ 嵯峨根亮吉博士=理研仁科研究室・原子核研究)


◯ 大学(※東京農工大・教授、学長)の定年間近、油絵を始めることを思いついて、新宿の「朝日カルチャーセンター」に出かけた。

 教わったのは鳥居敏文先生、人物を描く方で、私はそこで長く静物や人物(主に裸婦)を描いていた。ここで田崎とき子さんに出会った。

(※ 田崎とき子さん=喜多氏夫人・太平洋美術会会員)

 田崎さんは長い間、センターのクラスメートだった。センター登録の曜日が違えば田崎さんとは永遠のすれ違いだったはずである。

(※ 鳥居敏文;独立美術協会・日本美術家連盟委員)


◯ 後年田崎さんが、フランスのルサロンやサロンドトーヌに入選した作品がパリで展示されるのを機会にパリを何度も訪れた。

 この頃、3号のスケッチブックでいわゆる淡彩を始めた。これで東京、パリの風景のほか、ヨーロッパアルプス等々・・のスケッチを現場で仕上げて、これをもとに家で油絵を描いた。

 このスケッチをハガキ大のプリントにすると、2~30分程度で仕上げたスケッチの方が油絵より好評のことが多い。

 絵は時間をかければよいというものではないようだ。




◯ パリは長期滞在したわけではないが、パリ訪問の旅に、アトリエ・グランドショミエール※を何度も覗いた。グランドショミエールはパリでも最も歴史の古いアトリエである。

 (※ パリの芸術学校、アトリエを開放)

 ここでクロッキーの他、デッサンをかの有名なアートズール先生に教わった。

  先生は絵の中心の色をキャンバス上でトラベルさせよ、とおっしゃった。

 このように問題色をキャンバス上のあちこちにちりばめると、絵は暖かく自然な感覚になるのである。

 パリのアトリエのモデルさんと言えば華のようなパリジェンヌと思いきや(そういう場合もあるが)必ずしもさにあらず、中年のモデルさんも少なくない。聞けばモデルを20年以上やっているとか、元バレリーナとか、アトリエの皆さんに尊敬されるステータスの人達である。

 ポーズの途中で席を立ったりする人は誰もいない、ポーズ中のモデルさんに対して 失礼ということだろう。日本ではモデルさんは賛美されるが、尊敬されるというべきかどうか。フランスはさすが美術の国である。


◯ 東京黒百合会話は前後するが、朝日カルチャーセンターに通っている際に、センターの友人と勤務先の友人(いづれも故人、元黒百合会のメンバー)に紹介されて東京黒百合会に入れて頂いた。そしてここでは元来のメンバーの方と全く分け隔てなく扱って頂いた。

 私は北大の同窓生ではないので書くことは多くないが、皆さんに感謝の他はない。


 東京黒百合会では作品発表会や合評会で作品を相互に批評・評価することが多いが、いづれも「先生なし」である。

 即ち立場は対等で、遠慮なく批判できるし反論も出来る。

 また特筆すべきは作品発表会(東京黒百合展)には「賞」がない。「賞」が無いことによって、会の雰囲気は誠に自然で暖かいのである。

これは先輩の大きな知恵と言える。

 これ等によって会員相互の親密さ、信頼感が育まれたのであろう。そしてこれは一人一人にとって健康の許す限り生涯続く。

 絵の友は終生の友、有難い方々である。

  (上記文中の※印は編集子の注釈です)



◎ 喜多さん 百歳おめでとうございます


◯ 後藤一雄

 私のお気に入りの「喜多さんの作品と喜多さんの言葉」を送ります。

 写真は、「ラウターブルネンの谷 油彩」です。


「ラウターブルネンの谷」油彩


 下記は、2008.06.03の「私のモチーフ」に投稿された言葉です。

 絵に対する探究心が伝わってくる一節です。


――以前ジュネーブで仕事をしていた時、土曜日になるとお天気が良かろうが悪か ろうが、朝早く研究所の宿舎をスケッチブックを持って飛び出しました。ジュ ネーブからマッターホルンやユングフラウの麓までは半日程で行けますし、モンブランの下のシャモニにはバスで2時間程です。

一泊すれば半日~1日のハイキングが可能です。  

絵には画家の「哲学」「インテンション」とまで言わなくとも、やはり画家の「感情」が込められている必要があるでしょう。とすると、気に入るモチーフはそう沢山あるわけではありませんが、これらのスケッチや写真を じっくり眺めていると、今まで見逃していたモチーフが浮かんできます。

それに しても、うまくいったワイと思った絵も、「風景」の美しさに依存しているので はないかと反省しきりです。もっと「私の風景」を描きたいものと模索中です。――

                

   


◯ 喜多さん 百賀おめでとうございます        森 典生

喜多さんの作品は魅力的で味わい多く何時も楽しく拝見させて頂いております。

欧州の街角や山野または星月夜それにコンサートなどのテーマが多いようです。ソプラノの明るく穏やかなリズムにのった軽快さを感じて心地よいです。

私は2013年6月からアクリル画を始めましたが、喜多さんはアクリルの大先輩で展覧会の時などに色々と教えていただくことが多くありました。

一昨年大谷さんの個展でご一緒した折、記念の写真をお送りしましたところ、ご自分が「若い時より11㎝縮んだのです。驚いたりガックリきたり、オトシ98歳、仕方がありません」とご返事がありました。それに2018年肺炎で二回ご入院され脚が弱られたようです。しかし「これではならじ」とお家の周りを歩いたり、神田の合評会に奥様のご援助のもと頑張ってご参加されていました。

健康維持へのご努力!尊敬の念にたえません。

喜多さんから頂くハガキの「ペン画に彩色」本当に暖かくそっと描かれていて楽しいです。

今年は100歳の賀寿、本当におめでとうございます。今後とも健康に留意されまして絵画や音楽を

お楽しみください。

「セーヌの星月夜」 2016年・(北香展)


◯ 喜多会員のご長寿を祝して

                牧野尊敏

喜多さん100歳おめでとうございます。

心からご長寿のお祝いを申し上げます。

当会の会員に趣味とはいえ100歳で絵を描き続けられる方がいるということは、当会の誇りであり会員に対して大きな刺激になるものと思います。

喜多さんとは特にグループ展以来ご一緒させていただいておりますが、非常に研究熱心で皆さまの意見を謙虚に受け入れ絵に反映されている姿勢にいつも感銘を受けています。

また、自製され軽くした額に絵を収め、ご年配にもかかわらず会場まで持参されている頑張りにも刺激を受けております。

喜多さんの絵はアクリル画ですが、ヨーロッパの街角を題材に取り上げ、さりげなくまとめられている絵が印象に残ります。

ときには楽団の絵などで示されるように発想の異なる幅広い感覚もお持ちで、どの絵にもそこには人間の営みがあり、慈悲深さがあり、落ち着きを感じさせられます。

忘れてはならないのは、奥さまの存在です。

奥さまも絵を描かれ公募展に出品されている実力者ですので、絵に関しては相互に理解を深められているものと存じます。

今はコロナ禍で休会しておりますが、当会の合評会にはいつも参加されておりました。

その時に撮ったスナップ写真を喜多さんの熱心さの証として最後に紹介したいと思います。

これからも長生きされ、我々を楽しませる絵を描き続けてください。


2019年作品「星月夜 ブラスの饗宴」の前で喜多夫人とご一緒に。(牧野撮影)



◯ 百歳 おめでとうございます

                建脇 勉

喜多先生おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。先生のモチーフは、ヨーロッパアルプスとその河畔の古本屋でしょう。

何年も深く追及され完成度の高い作品となっていると思います。

ある時、合評会に突然別のテーマの作品を出されたことがありました。オーケストラの群像を描いたもので、驚いて質問した。これは真夜中のテレビのクラシック放送を聴き乍らそれをスケッチし作品にしたものとの事でした。その絵は、画家奥様のモチーフに似ていて、相互研鑽の結果と思いました。

ご円満な人格で、深く敬意申し上げます。  

            

◯ 百歳!おめでとうございます

 清水全生

ご健康で百歳になられてお祝いを申し上げます。おめでとうございます。小生は若干75歳これからも喜多さんを目標に精進したく思います。

絵画の大先輩として、いつも見習うことが多く、特に、海外のスイスの山々、山小屋、花々やパリのセーヌ河畔の古本屋など印象に残るものが多いです。展覧会、合評会(時折に)には常に、奥様とご一緒に参加され、共通のご趣味をお持ちになることも羨ましく拝見しておりました。

いつまでもご元気でご活躍下さい。


◯ 星空に科学の心と詩(うた)心と

                小石浩治

喜多さんは、晩年のゴッホと同じく、見たものをそのまま描くのではなく、その時沸いた感動をキャンバスに描き表わすようになった。

ゴッホの代表作に「星月夜」「ローヌ川の星月夜」や「夜のカフェテラス」に見るように、実景に忠実な描写ではなく、自分の心を描いている。細部の造作、明暗や遠近は二の次なのだ。


喜多さんの絵心を喚起したのは音楽だった。

これまでの作品はアルプスの山々、麓の街、パリの風景などがあるものの、大半はベートーベン(クロイツエル)、スペインのファリア(恋は魔術師)等々、歌手や演奏者の姿に感激し瞬間的に捉えて絵のテーマにしている。


例えば右図の「私の名はミミ」・2015年。

(プッチーニ作曲:オペラ「ラ・ボエーム」)

  「ラ・ボエーム」とはボヘミヤンのこと。1830年当時、パリに住む芸術家の卵たちは皆貧しかったが、希望にあふれ生き生きと過ごしていた。


パリの屋根裏部屋に暮らす4人の芸術家(画家,詩人、音楽家、哲学者)のうち詩人ロドルフオとお針子ミミの悲恋物語。

 詩人はミミを愛するが故に、己の貧しさは

ミミの病を治せない、むしろ命を縮めることになると考え、心ならずも嘘をついて別れを告げる。下図は、劇中でミミが自己紹介する場面か、

詩人との別れの場面か・・、アリアを歌う歌手と気持ちを一緒にして描き上げた。

詩の心を知っているからこそ、歌手の表情を捉えることが出来るのだろう。


喜多勲作「私の名はミミ」2015年・合同展


喜多さんは、学者(科学者)の心と詩人の心を両軸にして、その間を往復しながら感動を五線譜ではなくキャンバスに表そうとした。


――”若い頃はモーツアルトの大の愛好者。

自分の絵の通し番号にKITAのKをつける。モーツアルト作品のケッヘル番号にあやかって・・”―― [2011年「私のモチーフ」から] 

―”絵を描き始めてほぼ30年、才能の限界も見えてきたような気もするし・・自分の絵の良さ悪さが自分なりに分るような感じがする。・・絵は年をとってからも進化を続けられるのが嬉しい”と。また音楽雑誌の「吉田秀和特集」に「御年97歳、進化未だ止まず」とあったのに感服し“・・自分もそうありたい“と述懐しておられる。 そして今年8月、百歳!

モーツアルトの作品目録・ケッヘル番号にあやかり、喜多さんの作品は更に進化を続け、

ケッヘル/キタ・K100に止まらず、110,120・・と続くことを心から願っている。

また楽しい作品をご披露下さい。



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