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執筆者の写真東京黒百合会

私のモチーフ

                     (2022/09)  長谷川 脩

 広重の版画「東海道五十三次」に、雨の場面が二つある。宿場45「庄野」(季語:白雨)では強い雨にけむる竹林を背景に、籠担ぎと蓑や笠で急ぐ人物を配している。宿場49「土山」(季語:春之雨)では雨の中、笠と合羽姿の大名行列が増水した川の橋を渡る姿を描き、奥の暗い森と画面全体を覆う雨が静かな緊張感を醸し出している。

また、映画「七人の侍」で黒沢明監督は、農民が野盗団の襲撃を迎え撃つ戦闘シーンを猛烈な雨の場面に設定し、見事な映像表現を作り上げた。

このような作品に接し、いつか、絵の中に“雨”を表現出来ないものだろうかと考えていた。

「スケッチ」 クレパス 八つ切り4枚

上のスケッチは世田谷の芦花公園近くに間借りしていた時、窓から見えた雨の日の情景である。外出できない程の雨で、風雨の下、霞んだ樹々が揺れ動く姿に惹かれて描き留めておいた。三脚を立てて描く程のスペースは無かった。この部屋を借りる際に交わした「貸室賃貸借契約書」には賃料「壱ヶ月八千五百円也」となっている。それから暫くして、横浜の市ヶ尾に移った。この時の「建物賃貸借契約書」も残っていて賃料「壱ヶ月壱萬参千円也」となり、四畳半一間に比べるとやや広い面積が確保できた。古い契約書を何の為に残しておいたのか我ながら理解に苦しむが、当時の相場は二千円/一畳程度だったのだろう。

借家に替わったのは、家庭を持つことになった為である。この時、仲人をしてくださったS氏にお礼の気持ちとして油絵を描いて贈ることにした。適切な題材かどうか不安ではあったが「雨」を描いた。最も身近にあったモチーフが「雨」だったことにもよる。ようやく、三脚を立てて置いて描けるスペースができた部屋で、F4にまとめ、額縁無しでキャンバスのままを贈った。

 毎年お正月には、S氏宅にお伺いして近況報告をしてきた。S氏の名前は「壬子男」といい、1912年(大正元年)の十干十二支「みずのえ・ね」から採られたことを後に知った。60年に1回巡ってくる干支で、記憶に残っている。いつも自らコーヒーミルを挽いて、ニコニコ話しながらコーヒーを入れてくださったが、絵のことが話題に上るようなことはほとんど無かった。 S氏が亡くなられたのは昭和の終わりを目前にした頃だった。



「雨」 油彩 F4 1971/09


 それから暫くして奥様から、絵を返却したいので来て欲しい、と連絡があった。「差し上げたものなので・・・」という思いはあったが伺うと、お一人になられてからの生活にいくつもの変化があり、整理を進めているとのことだった。既に居間に風呂敷包みが置かれていた。包みを開いてくださると、そこに、ガラス張りの内側に金刺繍が貼られた枠組で出来た大きく立派な額縁があった。その中に20何年ぶりに見る「雨」が収められていた。S氏自ら額を選んで寝室に飾っていたとのことだった。そして、「主人は毎朝起きるとこの絵を見て、雨だなあ!と言っていました」と話してくださった。その時、この絵「雨」は、描こうとした時の役目を果たしてくれた、と思うことが出来た。風呂敷包みごと頂いて帰ってきた。

平成から令和に変わる頃、奥様が百寿を迎えられたことを知って、お祝いの手紙とお花を送った。すると後日、電話をいただき、今迄と変わらないしっかりした話し方で、家族と一緒に暮らし百歳を迎えられ幸せだと話していた。その声からは想像できなかったが、残念なことに翌年訃報が届いた。天寿を全うされた生涯だった。



  

   

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