私のモチーフ
- 東京黒百合会
- 4月2日
- 読了時間: 4分
25/04 長谷川 脩
大学に入ってスキーを覚えた。体重の移動とストックの反動で身体が運ばれるのが爽快で、たちまち魅せられた。雪面にエッジを効かせて登り、滑り降りてくるだけの動きだが楽しい。下宿近くの荒井山、多くの市民が利用する藻岩山、そして手稲山のゲレンデで滑った。三浦雄一郎は父三浦敬三が書いた本「98歳、元気の秘密」の前書きに、ヘルマン・ヘッセが残した印象深い言葉として「スキーは足につける魔法の翼*」を引用している。卒業の年、仲間と手稲の山頂へ板を担いで登り、北大の山小屋(パラダイスヒュッテ)で満天の星を眺め、翌日、長いダウンヒル(約6km)を快適に滑り下りてきた。札幌を離れ東京で就職することになりスキーともお別れか、と残念に感じていたが、その後も何かと関りが続いた。

当初、担当した仕事は応力関連センサーから得られる各種物理量を磁気テープに記録する装置の開発だった。大容量の記録媒体として磁気テープが用いられ、スキー板の性能評価にも現場で活用された。上図は、製品科学研究所が野沢温泉スキー場で企画したスキー板の評価試験時のものである。寒冷地でしかも振動下において、装置が確実に動作するかを見極めるために同行を求められた。各社のスキー板に何ヶ所ものセンサーを取り付け、背負子に記録装置を括り付け、プロのスキーヤ―がそれを担いで滑走し性能が評価された。
その頃、強化プラスチックやグラスファイバー等の素材が現れ、軽くて剛性の高い板が出始めていた。更に木、金属、ガラス、ゴムとあらゆる材料に使えるエポキシ接着剤が出現し、スキー板は大きく変化していた。何種類もの板が用意され、同一斜面で同じ滑りの走行試験を行なった。データ収録は順調に進み良いデータが取れたので、自由に滑って良いとの許可が出された。明治時代、オーストリアのレルヒ少佐が一本杖スキーを伝えた、という縁の深いスキー場は広大である。試験が実施された「日影ゲレンデ」の外に飛び出して、フリーの時間を満喫した。
当時、シーズン中は志賀高原にあった「樅の家」という会社が契約していた保養所を仲間と利用してスキーをすることが多かった。出会ったことは無いが、会員の名札に吉永小百合の名前もあった。
ある年のGWに、同僚がここを拠点にドライブの計画を立てた。国道292号の渋峠手前で、目に飛び込んできた風景で思わず車を止めてもらった。
「芳ヶ平」という湿原で、真冬の志賀高原とは異なる風景が広がっていた。暫くそこに佇んで眺めていた。この時の印象をまとめたものが、下の「残雪」である。この絵を最後に描くことから離れて絵具箱を開くことは無くなってしまった。

それと歩調を合わせてスキー道具も一つ減り二つ減り、お気に入りの板(札幌にあった芳賀スキー製作所の長さ2mのスキー)も処分した。仕事のハードルが上がり忙しくなったことで、なかなか自由な時間を作れなくなっていた。この状況は続き、年月は容赦なく過ぎ去ってリタイアの時を迎えてしまう。その間に、スキー板は短くて回転性能に優れたカービングスキーという全く新しいものに様変わりしていた。スキーと同じく絵も長いブランクが続いた。絵もスキーも、このような状況になったのは“先を見据えた明確な指標がきちんと定まっていなかった”ことが原因だったのではないかと思っている。
ちょうどその頃、東京黒百合会から入会勧誘の手紙が届いた。展覧会を訪問すると、諸先輩方が精力的に活動していらっしゃった。それまでの過ぎ去った年月は取り戻せないまでも、“これからの時間を大事に使って絵と向き合えないものか?”と漠然とした期待を抱いた。今後、カービングスキーを履くことは無いにしても、絵具箱は幸い残っている。簡単ではないが、再びカンバスに向かい、年齢に関わらず描く楽しみを見つけられるかもしれない、と遅い入会を果たした。(* 原文を読みたくてヘルマン・ヘッセのエッセイ全集全8巻を出版している臨川書店に問い合わせたが見当たらないとの返事だった。スキーの滑走感を表現する比喩として、古くから多くの人が同様の表現を用いてきた可能性が高い。)
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