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執筆者の写真東京黒百合会

近代日本洋画の名作選展


 奥村土牛展 ―「山崎種二が愛した日本画の巨匠・第2弾―」

2021・11月13日~2022・1月23日山種美術館      小石浩治

「絵は人柄である」と言って山種美術館創立者・山崎種二は、奥村土牛の才能を見出して

画業初期から支援、約半世紀にわたり親交を重ね、奥村の作品、山種の所蔵する院展出品作約60点が公開された。チラシも2016年(開館50周年)、2019 年(生誕130周年)と同じ「醍醐

にしている。「醍醐」は豊臣秀吉の「醍醐の花見」、世界遺産となった京都・醍醐寺の桜である。



Ⅰ. 奥村十牛-1889 (明治22年)~1990 (平成2年) 101歳歿――

日本画家・本名奥村義三【号・土牛】。土牛は、出版社を営む父から「寒山詩」の一節「土牛石田を耕す」※ から引用してつけられた。院展理事長、芸術院会員、文化勲章受章。

※「土牛石田を耕す」は、土で作った牛が荒れた石ころの田畑を耕す・こういう事をしても何の役にも立たない・というのが本来の意味。それが、「牛が石ころの多い荒れ地を根気よく耕し、やがては美田に変えるようにお前もたゆまず精進しなさい」(奥村土牛著:「牛の歩み」)という意味に解し名付けられた。

 土牛は16歳で梶田半古に入門、兄弟子・小林古径のもとで、研鑽を摘む。38歳で院展初入選と遅咲きながら40代半ばから名声を高め、101歳に及ぶ生涯を通じて、日本画に取り組む。本展は活躍の場であった院展出品作を中心に画業をたどる。80を超えてなお死ぬまで所信を忘れず、「拙くとも生きた絵が描きたい」と語り、画業に精進し続けた。


「雪の富士」 


「城」


「鳴門」  


「枇杷と少女」


Ⅱ. 牛に因んで・・十牛図のこと

「土牛」は中国・唐代(618~)の詩作品を元に父からもらった名前である。その“心”を大切にして絵画に精進したが、意外に「牛」を主題とした作品が少ない。 


土牛作「聖牛」。

「牛」と言えば、中国・北宋時代(960~)の臨済宗の禅僧/廓庵の作に十牛図(十牛禅図)という説話がある。―中国の禅の入門書として10枚の絵で説明している。真の自分(= 牛)探しから始まって、本当の自分と出合い、それと一体となり、手放していく・と言う、初心者のために「悟りのプロセス」が解る様に解説している。

(禅の教えとは、物事に拘らず、あるがままの心を持つことで自分を見失うことなく生きること・・との教え。禅宗―開祖は達磨とされ、6世紀初頭インドから中国へ伝わり、日本へは鎌倉初期に栄西が臨済宗を、道元が曹同宗を伝えた)

――十牛図入門(幻冬舎新書)「新しい自分への道」から





「十牛図のプロセス」・(十図の内2.6.10 の三図のみ掲載)

   1・尋牛  ある日、飼っている一頭の牛が逃げた。

     牛が逃げるとはどういうことか。

   2・見跡  前方に牛の足跡が見えた。 ?足跡とは何か。

   3・見牛  探し求める牛を発見。 ?何が牛を見るのか。

   4・得牛  再び逃げぬよう引き寄せ、牧人は牛と格闘する。

     牛を捉える綱とは何か。

    5・牧牛  暴れる牛を徐々に手なずける。

     牛を飼いならすとは何か。

   6・騎牛帰家 おとなしくなった牛に乗り、家に帰る。

     牛に乗っているとは何か。

    7・忘牛存人 家に帰り牛を小屋に繋なぎ安堵する。

   まどろむとは何か。(本項以下、牛の絵は無い)

   8・人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)

   うたた寝した牧人が突然居なくなる。

     空白とは何か。禅;円相の世界

   9・返本還源(へんぽんかんげん)

     空の世界から再び自然が戻って来た。

     牧人の中に根本的な変化が起きた。

     全てを平等に見て生きることが出来る

     ようになった。

   10・入垂手(にってんすいしゅ)

牧人は再び人間の世界に立ち帰ってきた。

      村で一人の迷える童子に出会い手を差し伸べる。

      「他者救済」の境地に至る。

      人の世界で「生きる」とは何か。

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